襷をつないだ先に

駅伝でつながれていく襷はみんなの汗をふくんで重くなっていく。それはまさにみんなの想いが重なっていくように。

私は小学5年生の頃から、町内の駅伝大会に参加していた。駅伝大会と言っても田舎町の小さな大会だ。毎年地区の慣例行事として行われていた。地区対抗で7つの地区で競い合い、ランナーはその地区の小学生・中学生・高校生・社会人で構成されている。

これは、私が中学2年生でアンカーを走ったときの話だ。

駅伝大会は毎年9月に行われていた。大会の2ヶ月前から地区で選ばれた選手が招集されて練習をスタートしていた。

中学時代陸上競技部だった私は、部活動はさほど熱心な方ではなかったが、この駅伝大会は毎年楽しみにしていた。陸上競技って個人競技で孤独な戦いではあるが、駅伝というスポーツは団体スポーツ。好きな仲間と一緒に練習するのがこの上なく楽しかった。毎年駅伝の時期を楽しみにしていた。

この駅伝大会では12区間あり、小学生が出れる区間、中学生が出れる区間などと区分けされていた。1区と12区の最終区は中学生が出られる区間だった。私が任された最終区は2.4kmあり、責任重大のアンカー区間だ。そして何より私の地元を走行する区間でもあった。

当日、天候は晴れ。体調も万全だった。一区のスタートを見送り、1時間ちょっともするとアンカーへと襷が繋がれる。早々とウォーミングアップへと入った。いつもレース当日は軽めの食事とゼリー飲料・カロリーメイトを摂取していた。そしてレース後半の筋肉の張りに備えて入念にストレッチを行い、軽めのペースでじっくりジョグを行い、体を温めていた。いつもと変わらぬルーティンをこなしていた。アップの途中でレースの経過情報が耳に入った。我チームは現在2位。1位チームと1分の差とのこと。体に緊張が走った。数十秒差であれば、最終区で挽回できると思っていた。

まもなくして、1位のチームが最終区に襷をつないでしまった。焦りと緊張と不安が入り混じった汗が止まらなくなっていた。そうこう考えているうちに我がチームのランナーがそこまで迫ってきていた。1位とのタイム差は40秒。やるしかない。

そして襷はつながれた。

気持ちは高揚していた。気持ちが足の運びを速くしていた。いつもより調子が良いように感じる。

800m。目の前に相手が見えてきた。それと同時に自分の地元区間に突入していた。近所のおばちゃんや同級生が応援しに来ていた。更に気持ちは高ぶった。思わずガッツポーズした。

1000m。相手を捕捉した。相手の後ろにピッタリ張りつく。呼吸を整えて、相手にリードしてもらいながらチャンスをうかがった。残り1400m。必ず勝つ。

1500m。相手より先行した。この時の1500mのタイムは当時のベストタイムに並んでいた。勝ちへの執念が自らを加速させていた。だが、足は張り、呼吸も早くなっていた。限界以上のペースで走り抜けてきた代償がここにきてやってきたのだ。残り900m。死ぬほど遠く感じた900m。

1900m。相手にピッタリとうしろにつかれていた。レースにおいて、追うより追われる立場の方が圧倒的に精神的にキツイ。常に背中から相手の足音と呼吸音が聞こえてくるプレッシャー。精神的疲れが肉体的疲労を加速させていた。足が重い、肺が痛い。

2100m。勝負を仕掛けた。相手は瞬発力のあるタイプだったため、ラストスパートで勝負になった際は負ける。残り300m地点でペースを上げた。相手を引き離す。

2300m。残り100m。最後は緩やかな下り坂の直線コース。目の前にはゴールテープが見えていた。相手もすぐ後ろまで追いかけていた。いつもどおり、スパートの前に深呼吸をして無酸素運動に移る。ラストスパート入った。

2398m。抜かれた。

2400m。ゴール。1m前に相手がいて、私よりコンマ数秒早くゴールしていた。負けたのだ。

立っていられなくなってアスファルトに倒れ込んだ。身体の限界だった。ゴール付近応援してくれていた仲間やコーチ、家族、友達が駆け寄ってくれていた。自分の不甲斐なさと情けなさで頭を上げることが出来なかった。


表彰式を迎えた。個人では区間賞、団体では準優勝という成績だった。

責任を感じて落ち込んでいる私を見かねて仲の良い先輩が声をかけてくれた「おれがあと1秒早く走っていたら勝ってたな!」心が救われた気がした。

私を責めるチームメイトは誰一人いなかった。

「One for all. All for one.」

大会直前にコーチがチームメイトにくださった言葉だ。自分1人で闘っているのではないことを思い出した。きっとみんなも同じ気持ちだったのだろう。個人競技のレースと違って、駅伝は仲間と喜びや悔しさを分かち合えるから好きだ。

この大会が終わってから、どうすれば勝てただろうか、このチームに何か残せただろうか。ふと思い出してはそんなことばかり考えることが多かった。

後日聞いた話ではあるが、チームメイトに3歳下の後輩がいた。その子はその時の駅伝で区間賞をとっており、立派な成績を残していた。もともとセンスもあり、練習も一生懸命な子だった。しかし、私の走りを見て感化され、「もっと速く走れた!自分がもっと速く走れてれば勝てた!」と言っていたそうだ。区間賞を取ったほど一生懸命走ったのに、さらなる高みを目指そうと意気込んでいた。彼にハートに火をつけてしまったのかもしれない。

「記録よりも記憶に残る」走りができたのかな。

翌年も同じ最終区を走らせていただいたけど、個人記録は前年よりも10秒遅いタイムでした。

駅伝のアンカー区間を走って、ラストスパートで競り負ける。貴重な体験をした。このレースを見てどれほどの人の心が揺さぶられただろう。泣いている家族、仲間もいた。大喜びする家族、仲間もいた。悔しくて肩を落とす者もいた。リベンジを誓う者もいた。限界ギリギリの勝負だったからこそ生まれたドラマ。そんな瞬間を演出できた私は幸せだと思う。これが私の駅伝の思い出でした。

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