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ポケットティッシュとハグ

くすん、くすんと、すすり泣くような音が聞こえて、それがクラスメイトの声だと気付いたのはしばらくしてからだった。

週に2回ほど通っているESLでは、授業の最初にみんなでCNN10というニュースを見る。使われている語彙レベルが比較的易しく、最近起こった出来事を10分間にまとめた番組だ。

緊迫した事件に動物のおもしろ動画と緩急つけられた構成。その日の冒頭は、ロシア・ウクライナ情勢の続報だった。泣いていたのは、ウクライナ出身の女性である。

いま私たちが生きている、この同じ日同じ時間に、別の土地であのような惨状が起こっている現実。頭ではわかっていても、自分の暮らしがある中では、まるで別世界のようにも感じてしまう。


わからない、が多過ぎる。だから口をつむぐ。でも、ESLに通っていると、みんな自分の意見を活発に言っている。日本人は静かだね、なんて囁かれる。
「英語で話せること」の前に「自分の意見を持つこと」ができていないのだ。そんな浅瀬の思考では…とますます控える悪循環。

それゆえ、泣いているクラスメイトにも、声がかけられなかった。彼女は、つい数週間前にウクライナからアメリカに引っ越してきたらしい。引っ越し、なんて生温い言葉では表せないだろう。避難。まさに死の危機と直面し、娘さんと一緒に安全な土地へ移動したのだ。夫さんや家族は、まだ故郷にいるのだという。

彼女にとって、母国や敵国のニュースがどれほどの感情と刺激を与えるのか、私には想像もつかないし、わかるなんて絶対に言えない。


ESLに彼女が入った初日、雑談の中で「娘は今年、4回も学校が変わったの」と言っていた。それだけでも、どんなに不安定な生活を送っていたかが、間接的に伝わってくる。
「アメリカの学校はどう?」と尋ねると「すごく楽しんでるみたい」と答えた。笑顔の中に、安堵や哀しみが入り混ざっていた。

「何も知らない私が」とよく思う。こういった海外生活のシーン以外、たとえばリアルでもSNSでも、辛さを吐露する友人に対して、世の中で起こる事件事象に対して、深く理解していない自分が言えることなんて…とつい黙ってしまう。
ただの逃げかもしれない。何も思わないわけじゃない、何も感じないわけじゃない。だけど。


クラスメイトが泣いているのを、先生は気付いていないようだった。伝えたほうがいいのかな、どうしよう、と考えあぐねていると、クラスにもう一人いる日本人女性がサッと席を立ち、ポケットティッシュを渡しに行った。それから黙ったまま少しの間ハグをして、またそっと席に戻った。

その躊躇いのない優しさが、とても眩しかった。日本人女性が差し出した手には、なんの思惑も打算もない、純粋な気持ちが宿っていたからだ。そこには、理解の深さといった尺度なんてなかった。
その証拠に、ウクライナ人の女性は涙が止まらないながらも、ホッとしたような顔になった。


ポケットティッシュを持つ文化って、なんだか日本人らしい。あれは、自分の汚れを拭き取るものであり、他人へどうぞと渡すものでもあったんだ。そしてハグは紛れもなく海外の文化。以前クラスメイトに「日本人はハグをしないのか」と驚かれたことがある。

いくつかの文化が混ざった思いやりの瞬間は、やけに鮮明な形で心に残った。


わからない、では留まるものばかり。異国の文化や慣習に関しては、好き勝手に物申すわけにはいかない。日本では良きとされる行為が他国では失礼に当たる例は、普通にある。
でも、人間が根っこに持っている感情の交換は、国が違ってもあまり変わらないように思う。

それに、異国文化問わずとも、かつて私が人に優しくしてもらったとき、理解の深度で判別したことがあっただろうか。深く分かってもらえている事実に安心した過去もあれば、何気ない一言に心の底から救われた過去だってある。ましてや、ハグに言葉はいらない。

意見や思いをかんたんに表明できるツールが数多く存在する世界で、どこか反比例するように言葉を飲み込んでいる自分がいた。理解しているも、していないも、単に自身へ向けられた意識である。
相手へ向けた先、そこに思いやりを含んでいるのならば、伝える言葉も、ふとした行為も、考えているよりもっと、シンプルでいいのかもしれない。

ポケットティッシュとハグを差し出す彼女と、やわらいだ表情で受け取る彼女、二人のクラスメイトを眺めながら、そう思った。

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