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同調圧力と多数決。

村人Aが言った
「あの日、納屋に入っていったのはQしかいなかったよ」と。

村人Bは言った
「Qとは、あの夜に会ったけど、なんだか落ち着かない様子で、俺が何を聞いても上の空だった」と。

村人Cは言った
「納屋の持ち主とQが日常的に激しい言い争いをしているのを目撃していたよ。もう1ヶ月も前から」と。

村人Dが言った
「あの納屋はもともとQの所有になるはずだったらしいんだ。だけど、諸々の事情で譲らざるをなかったみたいで。それ以来、Qとは納屋の話はしていないなあ」と。

村人Eは言った
「Qは、灯油を仕事柄よく使っていたからね。なにをどうしたら燃焼しやすいかの知識はすごいもっていたと思う」と。

そう、その日、件の納屋には火がついて焼失した。犯人探しは当然のように始まった。そしてQは当たり前のように犯人となった。当然のようにQは村八分になった。

Qが亡き者にされてから数年度、旅人Aは言った
「近くのスナックで飲んで気分がよくなって、あの辺でタバコ吸ったりしなかな。あ〜吸い殻はどこに捨てたんだっけ、覚えてないや。そのときは何の異常もなかったぞ。すぐに帰ったからその後の納屋の様子はわからないけど」と。

さて、”正しい”とはなんでしょうか。

***

大人は発言をすぐに翻して良い生き物なんでしょうか。

と、自分もしっかり”おとな”と言われる年齢(30OVER)になって思います。
なんていうか、これこそ”マス”の怖さだなって。

多様性なんて嘘。
多数決だね、世の中なんて。
そんな生き方してると、大量虐殺とか真剣に起こるでしょって普通に心配になる。

学生自体に国際問題とやらをそれなりに勉強してきたのでプロパガンダが壊した世界を学んできたんです。そう、世界史のなかでは過ちとして紹介されがちな歴史の1ページ。
え、そのくらいの情報操作で人殺せるかって半信半疑に歴史を学んできたけど、ありえるね、この感じならって今なら思う。人間って、危うすぎる。だって、世間って簡単に変わるんだもん、怖い、怖い。

***

いじめは良くないことだと人は言う。大人は言う。子供にそう教える。
でもきっと、本当の意味を知らずに言っている人、多いよね、今の世間を見ていると。
”いじり”で片付けられた問題も、最近はしっかり「いじめ」になる。それは悪いことではないと思う。
そもそも、”いじり”というのは信頼関係で成り立っている関係性の中でだけ許されているもので、上下関係がある中で存在して良いものではない。数あるコミュニケーションの手法の中で、イジリが有効はことある。そりゃあるさ。だけど、それは互いが信頼しきっているなかでしかないんだな、これが。それが私の意見だ。

イジリだって言い方を間違えればいじめとなった今、ニックネームで人を呼ぶことでさえ禁止されると聞く。本質はそういうことではないのに、と思う。
そもそもは、そうじゃないのだ。

人が嫌がるニックネーム、一方的に変なあだ名をつけるのはやめましょうってことで、人を本名以外で呼ぶのが変なことではないのだ。そういうことではなく、しっかり、相手の好き・嫌いを見極められる人になりましょうっていうのが正しい教育だと思うのだ。

だって学校のルールと社会のルールは違う。
場所が変わればルールも変わる。その根本は相手が傷つかないか、相手に失礼にあたらないかが基本になる。それは国や文化が変わっても。でも形式ばったルールばっかりだと本質を見失うよね。
あれ?そもそもなんでニックネームって駄目なの?って。
いや、それで人との距離を縮められるなら良いのよ、メリットなのよ。なのにその手法を封じてどうするのよ。
禁じ方が違う、そう思わざるを得ない。

***

とある会社の代表の不祥事があった。不祥事レベルではなく犯罪レベルだった。

そんな事実があったとして、その会社の社員は皆がみんな、糾弾されるべき人間なのでしょうか。

例えば、私の務める会社の代表が就職の面接と名目で会った方に性的な暴行をして、それはもう最低な行為で。長らくそれは闇に葬られていたけど、ひょんなきっかけで表に出て。でも、そのタイミングでは高齢のせいということもあり、当の本人は代表の座をしりぞいていて。
その本人の息なんて残らないような運営しかしていないのに、それでもその会社は犯罪者扱いされるのでしょうか。

なんだか、それは怖いことで。

例えば、私の夫が犯罪を犯したとする。
その犯罪自体は絶対的に悪だとわかる内容で。でも、例えば、彼がその犯罪が露呈する前に亡くなって。なんなら、生前は私はそんな事実なんて知らなくて。知らないのに四十九日を終えた頃に、よくわからない誰かから、”てめえの夫、犯罪者”って指をさされて、私は何も関与していないのに、その家族の者だからってだけで「○○家の者は〜」ってばかにされ、人権を奪われる。

それはアリなんでしょうか。

今の世間を見ていると圧倒的にアリな人間が多そうだ。気持ち悪い。

犯罪を正当化したいわけではない。世間で話題になりもしないような小さな規模でも被害で苦しむ人を話をちゃんと直接聞くこともあるから。決して楽観視しているわけではない。

***

何が怖いって急に、親密ぶっていた人達が立場を変えることだ。

ああ、おとなって芯が無いんだなって思う。というか、そう感じ取られることをわかってないとしたら、配慮が足りていない。そんなことを表に広告をうったり、情報を届ける側がやっていることに驚きだ。

今、世間は伝えることが正義とばかりにこぞって同じ意見を発している。別にそれが本当に発信元が信じる意見なら良いと思う。
だけど、どう見ても、いじめにしか見えないよって思う。

口が無い者は反論はできぬ。もちろん、世の中に出ている「事実と語られること」は事実なんだろう。もはや、誰も嘘とは証明できないし。嘘をつくメリットなんかない人のしっかりした言葉はきっと本当だ。

だとして、さ。
それを今になって、世の流れに合わせて急に周囲の人間がぎゃあぎゃあ言い出すのって最高にダサくないのだろうか。
なんだか、見ていて悔しいし、恥ずかしいし、怖いし、こんな世の中にいたくないのだ。

当事者の発言は正しいし、わかるのだ。そこに同調や共感するのも良いのだ。
そうではなく、勝手に叩けば良いでしょっていう感じの流れが恐ろしいのだ。

そうじゃない。なぜ、部外者が。
いや、直前まで味方です〜なんてハートマークを語尾につけて話してたような奴に限って、すぐに意見変えるよなって。

そう思ってしまう。
悲しい世の中だ。

***

すごく思ったのだ。
ああ、もう情報を見たくないと。テレビもみたくないし、ネットニュースも然り。

これまでにも何度もある。

コロナ禍のペットブームのときもそうだった。

だって、コロナで自宅時間増えたから=暇だから、命をかいましょうってバカにしているとしかいえない。いや、命だよ!
暇だから子作りしましょうって言ったら、おまえら応援するのか?ってこと。

同じ命なのだよ、犬も猫も人間も。
他の動物を殺さないって面では、犬や猫の方がだよね、人間より、間違いなく。

それを理解せずにペットを「人間の娯楽」と勘違いしている風潮、それを後押しするメディアの発信の仕方が嫌いだ。それはもう小学生のころからで、もう20年以上も変わらず、日本のメディアや広告媒体、ペット産業に思っていることだ。もちろん、なかには健全で命にちゃんと向き合っている存在がいることは知っているけど。

「子供の教育にためにペットを飼うといよい」という意見も最低だと思っている。ペットも子供と同じなのに、なんで、子供より下の前提なのか理解に苦しむ。ペット=命あるものを教育の道具としか扱えない親の元で育った子供に本当の意味での命の平等性や大切さなんて絶対わからない。勝手に人間が世界一の存在だと思ってしまう。
道具として命を扱わないで。

そんな考えを子供のときは自分が青臭いだけかと思っていた。
おとなの社会とやらがわかれば、そんなクソみたいな情報発信にいちいち怒ることもストレスをためることもないのかなって思っていた。

だけど、真実は違って、むしろ嫌いだ。どんどん嫌いになる。

自分が大人になってむしろ思うのだ。いや、やっぱり発信している情報が伝えたい内容って違うんじゃないかって。見ていて全然気持ちよくないし、嫌悪感もするよって。別に意見を否定するわけではないのだけど。

ねえ、それって本心ですかって。
ただ、叩きたいから叩いているだけではないですか。ゲームセンターのモグラ叩きじゃないんだからさ。ちゃんと相手みて、叩く理由があるかどうか、頭で考えてから動こうよ。

周りがやっているからっていう理由を正当化する限りいじめはなくならない。そう何度も言われているのに。
ねえ、なんで、メディアや世間は謎すぎるくらいに一斉に足並みを揃えるの?そんな姿が怖いよ。

***

まだまだ生きたいと思える世間、未来になりますように。

こんな風にこんな世間を不安視している人の意見も少数でも、誰かに知ってもらえると幸いです。


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