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一生懸命さへの憧れと根性の使い手(ハイキュー!!)

一生懸命ってかっこいいなあ、と思うものに出会ってしまった。

根性や熱血などという概念が排除されてしまって、もうすっかり荒廃していた大地でいろんなことを諦めて寝転んでいたところを叩き起こされたかのような感覚があった。

突然輝き始めたその衝動を追うか、自分には直接関係ないことに気付いて再び元の生活に戻るか。道はいくつかあるんだろう。

だけど今回の私は「そういうのいいな」と思ってしまった。自分自身もいつだったかもわからない、おそらく子供の頃に落としてしまった忘れ物をもう一度取りに行きたいという気持ちになった。


失敗をする勇気を持つことを、一生懸命になるということだと思っている。だからずっとそこそこで生きてきた。けれどもっとやってみたくなった。うまくなりたいと思った。私も自分にできるものを頑張ってみたいと感じた。

そのきっかけが「ハイキュー!!」だった。






話は少し変わるようだが、オタクとしてSNS巡りをしていると「手癖で描いている」という言葉をたまに見かける。これはイラストを描く時にポーズなど細かいところを大して調べず、自分のやりやすい構図で好きなように書いているということだ。もちろんここで好きなように書くということは全く悪いことではない。この場合よくあるのはその前の調べたり勉強したりということを省略しがちという点だ。

シンプルに楽しみたいだけなのであれば手癖でも自由に好きなように描いているだけでいい。例えば誰か友達と一緒にわいわいとイラストを描きあったり、好きなキャラクターをとにかく何度も描きたかったりと、描くことで得られる喜びとは無数にあるからだ。


ただ、ここに「もっとうまくなりたい」という気持ちが乗ってくるとそうはいかなくなってしまう。

うまくなるためには挑戦しては失敗し、落ち込み、再度立ち上がるという一連の流れが必要になってくる。うまくこなせるようになれば、この落ち込みというやりたくない段階をすぐに通り過ぎることもできるようになるのだろう。だけどなかなかそんな域まで行くのは難しい。気持ちの切り替えや慣れ、そして達観――勝てるとするならそんな意識ではないかと思う。

今までの自分のやり方を変えるのはきっと、誰だって大変だ。これまで自分の中に沁みついていたものを一つだって動かすことには、それ相応の覚悟が必要だし、実際に噛み合うまでに幾度もの苦しさを生じるものだからだ。いきなり明日から新しい自分は来てくれない。昨日までの自分は消えてくれない。簡単にはできるようにならないとわかっている。


私はちょうど「手癖で描いている」ような状態で文章を書いてきた。手元にあった話題をその時の気分で手に取り、一応吟味はするがきまぐれでもある。そのせいで方向性を間違えて走ってしまったりと失敗もする。

だけどそれはまだ一生懸命やって失敗するよりはずっと楽だった。一生懸命になることは実はとても怖いことなんじゃないかと思う。だって全力で走った方が、ゆるっと走っているよりも転んだ時にずっと痛みがある。

だからか、なんとなく手を抜いて手軽にやり切れるものを選びがちだった。全力でやって結局できないことは、手を抜いてやっていることを失敗するよりも痛かったから。最後に一生懸命やったことは何だったんだろう、と考えてみてももう思い出せない。

根性で頑張ることは、なんとなくかっこ悪いものとされている時代で育ってきた。周りもそんなスタイルで生きている人が多かった。




私の推しである弧爪研磨は試合中にこのようなことを考えている。

「根性って多分 最終奥義。精神と体力を鍛えた者が満を持して発動できるもの。おれには使えない必殺技」

ハイキュー!!268話より

そんなことを思いつつも、この対早流川戦にて研磨はギリギリの状態まで自分を追い込み、作戦通り見事に勝って見せる。それこそが研磨にとっての根性での一歩だった。


土壇場で根性を出せるほどに今の私は強くはない。だからこそ憧れる。一生懸命やってもできなかったことばかりだった過去を振り返らず、残り一回でもいいから最後に根性で戦うようなことをやってみたい。根性や熱血といった考え方は既に過ぎ去った古い時代の考え方であったとしても。

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