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忘れかけていたこと、大切なこと―『モモ』ミヒャエル・エンデ

モモは大事なものをとりかえしてくれた。

『モモ』はそういう物語だった。

こんなにもモモという女の子がヒーローだったなんて知らなかった。

小学校のとき、高校生のとき、読もうとして借りたけどその厚さに、結局読めなかった。


『モモ』はドイツの児童文学作家、ミヒャエル・エンデの、一度は名前を聞いたことのある名作である。

子どものときに読んだのと比べれば、それはたしかに遅かったのかもしれない。それでも、大人をやってる今のタイミングでも、読むことが出来て本当に良かったと心から思えた作品である。

もっと遅くに出会うよりも、出会えずに終わるよりも、今読めたことの方がずっとマシな気がした。

満を持しての再会。

今回『モモ』に手を伸ばすきっかけとなった話は後ほどしようと思う。


◇◇◇

世界が灰色に染まっていた。


漠然と、でも日々の積み重なりの中で決壊しかけた、えもいわれぬ苦しくて仕方ない気持ちはどこからやってきたのだろう。
最近そんなことばかり考えて余計苦しくなっていた。

「効率」、「無駄」、「損得」。

社会で生きていくには、お金を稼ぐ必要がある。お金を中心に考えていくと、どうしてなのか苦しくなる。

お金は本来、交換するためにしか価値を持たないはずなのに、お金をたくさん稼ぐことが成功なんだとすると、いかに無駄なく、損なく効率的に……。

生産的な活動しか価値を持たないように思えてきて他の全てが無駄のように感じ出し、だんだん人生が味気なくなっていく。

要領が悪いから余計辛い。それに囚われるまま見失っていく。

本当に大事なものを見失っていく。


気づけば立っていたのは灰色の世界。

時間が手に入っても、そこにあるのは焦燥感ばかりで、もう、上手くご機嫌に使うことが難しくなっていた。

――だからこそ、


お金に支配されない、結び付かない、お金というものの外側にいるモモにしか、きっと立ち向かえなかった。

だからこれは、モモにしかできなかった。モモにしかできない戦いだった。


◇◇◇

モモは「おれたちのモモ」で「わたしのモモ」

読んでいてふいに涙が出そうになる。

モモは浮浪児だ。でも大切に思ってくれている人たちはこんな風にモモを呼んだ。

「おれたちのモモ」「わたしのモモ」。

そしてそんな風に呼んでくれる人たちはモモにとっても、特別に大切な人たちだった。

そして読者の自分にとっても、いつのまにか「おれたちのモモ」、「わたしのモモ」になっている。

児童文学は子どもの成長を見守る物語だと、前に聞いたことがある。

成長に寄り添う存在として、とってもかわいいカメが配され、モモは時に押し潰されそうになっても、勇気をふりしぼって進んでいく。

「おれたちのモモ」「わたしのモモ」と言ってくれる大切な人たちのために。

◆◆◆

本を開けば

物語の中にするすると導いてくれる、大島かおりさんの翻訳もすばらしいからこそ、この作品が色褪せず、魅力的なんだと思います。(敬意を表し、ここから口調が変わります。)

◇◇◇

今回モモを読むきっかけ

をくれたのは、一つの、一連の写真作品でした。

フレネル(fresnel)さんの写真の世界が一方的に好きで、覗かせていただいていたのですが、

時間の経過を映し出したように少しずつ開いていくお花という植物の生を、『モモ』という文学作品と融合してやさしく切り取るこの作品に強烈なステキを感じ、惹き付けられ、『モモ』を再び手に取る勇気をいただきました。

お優しいことに、8月にNHKで解説番組をしていることまで教えてくださいました。温かいお心で背中を押していただきました。

おかげさまで、読まずに終わるかと思われた、『モモ』に興味を持ち、読み始めると楽しく、読了することができました。ありがとうございました。

◇◇◇

時間の花(※この部分は『モモ』を読んでから読むといいかも)

フレネルさんの作品のタイトルにもなっている、印象的な言葉「時間の花」ってなんだろうと思いながら、ページをめくってゆきました。

この「時間の花」こそ、物語のキーに思われます。とても丁寧に美しく描き出されていて、いつのまにかモモと一緒に眺めているような気分になってくるほどでした。

「時間の花」は、フレネルさんの作品も思い出されながら、移ろっていく時間とともに、くらい池の中から浮き出てきて少しずつ開いては咲き、少しずつしぼんでゆき、またすうっとくらい池の中に沈み、また次々と……、幻想的なきらきらと美しいイメージを伴って、頭の中に湧き広がってゆきました。

夢のように美しく、調和的な世界は、モモの気づきにより、一度中断されます。

とくとくと続いていく時間の流れ中に、自然と耳を澄ましたモモは音楽を見つけだし、それが自分に向けられたものだと気づきます。その壮大さにおののいてしまうのです。

マイスター・ホラに思わず、抱きつくモモはやっぱり小さな女の子なんだなと思い出されます。

そんなモモにかけた、マイスター・ホラの言葉、それに質問したモモに答える言葉が私はとってもいいなあと思いました。

「おまえの見たり聞いたりしてきたものはね、モモ、あれはぜんぶの人間の時間じゃないんだよ。おまえだけのぶんの時間なのだ。どの人間にもそれぞれに、いまおまえが行ってきたような場所がある。(省略)」
「でも、あたしの行ってきたところは、いったいなんなの?」
「おまえじしんの心のなかだ。」(全て 12章 モモ、時間の国につく より)

ハッと核心を付くような、『モモ』の中に流れる深い哲学に心を掴まれた瞬間でした。


この一連の時間の中に流れる音楽という描写に「天球の音楽」という言葉を想い浮かべました。

※おひつじ座29度サビアンはしばしばそんな風に訳されていてこの言葉を知りました。(ちなみに私はその度数を、「歌っている天国の聖歌隊」と取りました。この世界観と解釈は似ているかなあと思ったのですがここでは天球の音楽の言葉の話をしてみたいので先に進みます。※下線のところから一応飛べるようにしておいたので興味を持ってくださった方はどうぞ。)

言葉の響きから想像したこと、それは、宇宙の星の引かれ合う、恒久の時を超えて鳴り響き重なり合う、この一瞬のためのハーモニー。

あらゆる軌道からこの道を選んで、あらゆる奇跡が重なって、今ここにいる――。


モモの戦いを追いかけて、本を読み終わったときには、いつのまにか灰色を漂っていた自分が、すっくと、自分に戻ってきているような感触を得ました。

ああ、私は生きていていいんだな。無駄じゃないよね、と。

永遠とも永久とも計りしれない、普段は透明で感じられないけれどモモのようにじっくりと耳を傾ければ感じられる、そこに続く星々のまたたき、時間の中に、

私だけの時間がちゃんと流れていて、それは誰にも奪われるでもなく、私のためだけにあって、

だからそれは私の見たいもののために聴きたいもののために、感じたいもののために、私の大切にしたいもののために使ってもいいんだよね、と。


そして、(ここは個人的なひらめきなので読み飛ばしていただいていいのですが、)時間という命題、遠い星々のまたたき、命の流れ、自分に与えられた命の時間というきらめき、なんかみんな繋がっているような気がして、サビアンという12星座360°の流れを追う物語をまた書き出したいと思ったのでした。(注:まあまあゆるいショートショートを書いているだけです。)

もちろん、こうしてここに文章を書こうと思えるのは、いいなあと思える作品を惜しげなく見せていただけるステキな作品を創られる皆様、お読みになって励ましてくださるやさしい方々のおかげであることは言うまでもありません。

◇◇◇

つまり

『モモ』は子どもの成長を見守る児童文学という立ち位置でありながら、大人の私たち(一緒にしてすみません。)にも、いつのまにか忘れていた、大切なものをとりかえしてくれる一人の女の子の物語とも読めるので、大人になってから読んでみるのも一興です。

作者の鋭い未来への示唆と深いメッセージの詰まった、ミステリーとしてもファンタジーとしても楽しめて、モモを応援したくなるような、包容力のある、愛の詰まった作品です。

読んで本当に良かったと思えた作品です。

今回『モモ』を読むきっかけを与えてくださったフレネルさん、本当にありがとうございました。掲載許可もありがとうございます。

なつかしいなと思われた方はもちろん、私のようになかなか読めなかった方も、読んでみようと思ってくださった方も、本を開くと頭が切り替わるようにめくるめく物語の世界が広がりますので、よかったらお読みになってみてください。

長文となりましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。


Image photoは『モモ』ミヒャエル・エンデ作 大島かおり訳(岩波少年文庫127)表紙を少し色彩加工しました。(ちなみに絵も作者が描いているとのこと!)








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