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結果を求めない生き方の方が人生豊かになる~勉強や受験と人生の幸福度の話

5月中旬に書き始めて下書き(溜まってる)に入れっぱなしになっていたものを修正、加筆

最近、少しずつ世の中が変わってきているような気もするが(その分野はよくわからないが風の時代?)、まだまだどのような分野でも当たり前のように結果を求められることが多いように感じる。

数字が一番という価値観である。

営業職なら当然であるし、例えば一見すると健康を大切にしているようなウェルネス業界でも体重を落とすということや顧客を増やすこと、売上げ、単価、利益etc…

霞を食べて生きていけるわけではないからある程度は仕方ないとは思うが、それをやるからみんな苦しくなる。

本来やりたいことと実際にやらなければならないことにギャップが生まれて仕事がつまらなくなる。

職場に競争的な空気が生まれてピリピリする。

数字や結果を出さねばという責任感が日々の辛さになっている人も多いだろう。

結果を出してもそれが幸福度にはならない。


学生も同様である。好奇心の赴くままただ学びを深めていけたら楽しいのだが、定期的に試験があり、さらに次の進路に向けて学力をつけていくことが求められる。

前へ前へ、上へ上へ、のマインド。

結果を出さないと意味がないとされ、試験の点数で人間を等級分けするような考え方(学歴)がある。

実際、優秀なタイプではないし、周りから全く期待されていなかったが、勝手に承認欲求の塊になっていた私は、高校時代それなりに勉強し、運よく行きたい大学へ行けた。

親は無理だと言い、私の志望校を笑い、認めなかったが、それがむしろ私に火をつけて、貯めたお年玉で1科目だけ塾へ行き、それ以外は自分で勉強し、どうにか第一志望に受かった。

地味でぱっとしない私の存在を、親をはじめとする周りの大人や、他の同級生たちにも認めてもらいたかったというエゴが異常な頑張りの動機であった。

別に第一志望合格後も、親や周りの人間は私を「認め」てはくれなかったし、相変わらず地味でパッとしない人間であったが、ある意味で私が自認している成功体験は後にも先にもそれくらいである。

ただ、行きたい大学には行けたけれど、それが幸福度を高めたかは疑問だ。

その後の私はむしろ頑張ることができなくなり、世の中が作り出した道に従い(就職)、大学受験というイベントが人生のピークだったという感覚のまま、プライドだけ高い中途半端な大人になってしまった。


大学卒業後、幾つかの仕事を経験したのち、流れで過去の栄光である大学受験の世界に戻った。今度は教える側として。

教育業界は高度経済成長期みたいな上昇志向の昭和的価値観が珍しくまだ残っている世界の1つだと思う。

不思議な高揚感が懐かしく、20代半ばだった最初の頃は塾が求めるビシバシグイグイ指導する、というテンションが私にフィットし、完全に「陽」であるハイな状態になりながら仕事をした。

ストイックに自分を限界まで追い込むマインドが楽しかった。

休みの日も朝から晩まで過去問を研究し、暇あらば勉強に勉強を重ねた。

運良く優秀な生徒さんたちにも恵まれたお陰でたくさん実績(結果)を出すことができた。

開始5年ほどでたまたま校舎トップになり、本社で行われる表彰式に出たこともある。

塾では、実績=講師の価値、となる。

当然、昇給もし、性別と年齢の割に良い暮らしも出来るようになった。

結果を出した。思ったより早く。
だが、どうしてもどこか満たされなかった。
もともと低い自己肯定感は低いまま、自信がつくこともなかった。

やればやるほど虚しくなった。幸福度は上がらない。

そして、この仕事をこのまま、この先の人生ずっと続けるシュミレーションをしたら絶望しかなかった。

他人を煽り立ててエゴを刺激することで要求通りに動かし、世の中が決めた序列に押し込むことで誰が幸せになれるだろうか。


その塾では、いわゆる本当の上位層の学校しか実績として認めていない。

例えばもともと勉強が苦手で偏差値が35くらいだった人が、偏差値55の大学に入り、偏差値を20上げましたと言っても、「結果」 としてカウントされないのである。

無価値という扱いである。

一方で、もともと進学校に通っていて偏差値65の生徒が偏差値67の大学に受かったら、偏差値は2しか上げていないが、担当の講師が「結果」を出したことになる。

実際は、偏差値50くらいの標準的な生徒を65前後に上げるようなパターンが一番よくあるが、たまたま担当した生徒が元から優秀なら楽に評価されるのだ。

10上げても、50から60になら価値なし、という扱いになるから、本人に野心がなかったとしても最初から志望校を高めに設定して煽らなければ結果を出せない。

或いは本人の気持ちは無視して出資者である親のエゴに加担するというケースもある。子どもの学歴を自分たち親の価値だと思っている親たちだ。

おかしくないだろうか?

疑問を持ちながらも、自分の生活を維持する必要があるし、転職するエネルギーもスキルもないのでその後も何年かその仕事を続けた。(INFJって無駄に順応性があるから、仕事辞めたり誰かと別れるのが下手な気がする)

だんだん結果至上主義の価値観への疑問が確信に変わり、メンタル的にも人をエゴを動機に努力させることが本気で苦痛になってきた。

(唯一、男女関係なく対等にチャンスをもらえ、評価してもらえたことだけは、本当に良かったと思っているが。)


副業として数年前から同時進行していた同種の仕事では、対照的にあまり実績を求められない。

もちろん志望校に合格できればみな喜ぶが、一緒に頑張ってきたことが報われた時の素直な喜びであり、実績で講師にランクをつけたり収入に差を出したりはしない。

志望校がどこであれ同等に扱い、レベルの高い、名の通った進路を選ぶよりも、じっくりとひとりひとりに合った道を探していく。

高校の卒業資格を取ることや、専門学校に行くことも立派な目標であるし、好奇心や興味をベースにした学習を進めていくことも歓迎される。もちろん望めば上位校と呼ばれている大学を目指しても良い。そこに優劣はない。

今ではそのもともと副業だった仕事が私のメインの本業になっており、ビシバシ塾(仮w)は副業だ(長く教えている生徒に情があるので簡単に辞められない)。

実績を出すために逆算して戦略的な教え方をするよりも、目の前のことを粛々と積み重ね、気がついたら随分と高い場所まで登っていたことに気がつく、というような教え方をしている。

結果も出していないわけではない。
昨年度は成績不振で通信制高校に転校したのち、マンツーマンの指導のみで医学部に入った生徒がいた。

他にも、中学から不登校で言葉を発することができず(緘黙)、表情やしぐさのみからコミュニケーションを取りながら授業をし、いわゆるMARCHと呼ばれるレベルの大学に複数受かった生徒もいた。

結果を求めて頑張ったのではなく、目の前のことを一生懸命積み重ね、気がついたら結果が出ていたケースだ。

根底にはエゴではなく愛や好奇心があり、自分を大切にすることから出てきた自然な向上心や自立心が結果を出したのだ。

このような結果は心を満たす。幸福度が上がる。

当事者本人はもちろんのこと、関わった周囲の人々がみんな温かい気持ちに包まれる。
そして、幸せの輪が広がり、人生が豊かになっていく。

結果はあとからついてくるのだ。


人生に関しても同じことが言えるのかなと思う。

なにか特別なことを成し遂げなくてはならないとか、後世になにかを遺さなくてはならないと結果を出すことを意識して意気込むと苦しくなるし、楽しめない。

目の前のこと、自分に課された役割を精一杯こなし、日々を一生懸命積み重ねることで、振り返った時にじわっと幸福を感じるのではないだろうか。

進歩しなくても、向上しなくても、一瞬一瞬を自分らしく過ごし、楽しいなと感じられたら、それが生きている意味になるのかなと思う。

せっかくだから幸福度を上げていきたい。

結果なんて求めない方が豊かに生きていける気がする。



似たようなことを以前書いていたのですが、自分でもう忘れていました。


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