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日々考えることのはなし

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毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました
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2022年5月の記事一覧

雨と傘

恵みの雨と思えればよいのだろう。 家を出てしまったあとに雨に降られることが多い。 正確には『多いような気がする』かも知れない。 嫌な事が強く記憶に残っているだけかも知れない。 しかし、自宅のビニール傘の本数を見るとそうでもないようである。 まわりからはスマホで降雨予想を見てから家を出たらいいと言われるが、自分の五感を信じたい。 それが今の傘の本数であるならば、私の五感はかなりの老朽化ということかも知れない。 最近のビニール傘の出来は良い。 歩いていても周りがよく見えるし、

怖いと思ったこと その5

その頃いつも掃除機をかけていた。 気付けばいつも掃除機を片手にしていた。 夢のなかの話であるが、いつも掃除機をかけていなければ私は塵に埋もれてしまうのである。 小学生の時、先生の話に「一年に1ミリの塵が積もれば千年で1メートルになる」そんな話を聞いた。 算数での単位でのたとえ話だったのか、理科の話が発展したのか覚えていない。 でも私にはとても現実的なことに思えて怖さを超えた感慨のようなものがあった。 ちょうどその頃、豊橋の太平洋岸にある伊古部(いこべ)という地名の海岸によ

自身の健康を考える

5月24日火曜日、八尾から見える生駒の山々の背景にはすでに積乱雲を思わせる真っ白な大きな雲が立つ。 暑い。 そして、その暑さを感じなかった両親を思い出す。 晩年の父に、毎月の兄の診察に行く車の運転を任せることは出来なかった。 会社を休み、前日に愛知の実家に泊まり翌朝早くに家族全員で静岡に向かった。 五月の東名高速添いの山々の新緑はまぶしかった。 そして暖かさを通り越した日差しは半袖のTシャツ一枚の私にうっすら汗をかかせた。 しかし、自身で判断の出来なくなっていた母は毛

食の大切

さて、昨日は久しぶりの知人と会い、いろんな話をした。 環境の話をしていたのだが、自動車のこの先の行方が寂しいと言う。 化石燃料で走る今の自動車から電気であったり、環境に優しい燃料で走る自動車に変わってしまうのが寂しいと言う。 分からないことも無い、私も車の運転は嫌いではない。 エンジンルームを覗くのが好きだし、若い頃には自分でエンジンオイルも替えていた。 パンク修理も自分でやった。 モーターで動く自動車の構造は簡単であろう。 AIにも馴染みはいいだろう。 でも、どう言った

道すがら

日曜の朝、仕事を終えていつもこの道を歩き合気道の稽古に向かう。 再開発された街並みに自然の樹など無いのだが、狭い敷地で生きる草木が去り行く春を楽しんでいる。 その姿は自ら選べぬ私たちの人生のようにも思う。 草木は口を利くことは無く、歩いて好きな場所に行くことも無い。 自分の運命を受け入れ悟り、そこで命を全うしようとする賢者のようにも見える。 そして、草木は私に語りかけているように思う。 何を迷うているのかと問うているようにも思う。 何を嘆いているのかと笑っているようにも思

金曜の夕に思うこと

金曜の夕、一駅先まで歩く。 稽古に向かう時間である。 サラリーマンをやめて6年も過ぎるのに、いまだに金曜の夕の開放感が頭のどこかに残っている。 歩く道には公園があり、緑の桜は風に揺れ、シロツメクサは今を自分の天下のように背すじを伸ばし立ち、あのコロナの頃には見かけなかった子ども達が夕陽を背に戯れている。 広い歩道は一見幸せそうに見える犬たちが猫背の飼い主達を引き連れて闊歩する。 帰路を急ぐ男達、スーパーで買い物を済ませて夕餉の支度のために自転車を走らせる女達。 日本中の至る処

雨におもう

雨降りが嫌いになっていたのはいつ頃でしょうか。 昭和も終わる頃サラリーマンとなり、元号は平成に変わり現場事務職から営業職に移りました。 当時はまだ日本のどの会社もしっかりネクタイ着用でした。 当時のゼネコンの営業は他の業界よりも身なり、礼儀は厳しかったように思います。 私は同行する上司、先輩に迷惑をかけぬようにとそれなりのスーツ、革靴で身を固め出社したものです。 ずいぶん金はかかりましたね。 それまでは会社支給のユニホームでよかったのですから。 しかし、苦痛は金

人との距離感のはなし

実際の人と人との間の距離についてである。 これには適当な距離が必要だと思う。 昨日ホームで入ってくる電車を待っていると背後に近すぎる近接を感じ、振り向くと若い男が考えられない距離で私の真裏に立っていた。 ホームではいつも我慢しているが、後ろに人に立たれると気持ちが悪い。 男と女の距離感が違うことは聞いたことがある。 男より女性の方がこの距離感にはゆるいようで近くでも平気なようである。 理由はわからないが、子を産む女性の母性に関係するんじゃ無いかと思う。 どんなに

マスクと合気道

暦では夏を迎えたのだからおかしくはないのだろうが、暑い。 暑いのも寒いのも苦手ではないがマスクをしての稽古は身にこたえる。 普段の生活でのマスクには慣れたものの、稽古でのマスクにはこの先も慣れそうにない。 いずれ着用不要になるのだろうがこのマスクのことは引き続き考えていかなければならない。 ひと昔前の時代の我々の学生時代の合気道の稽古は厳しかった。 腕立て、腹筋の回数ばかりではなく、稽古終了後に先輩方に投げられ続けた。 厳しい投げ技ではあったが、それを続けるうちに

小笠原先生の話

沖縄が日本に返還された日、それも50回目の記念の日、ここ最近話題は集中していた。 NHK朝ドラ『ちむどんどん』をみている。 仲間由紀恵がお母さん役、容姿、性格とも美人三人姉妹に驚く。 家族で囲むフーチャンプルーは美味そうだった。食べたことのない沖縄の麩はどんな食感なのだろうと想像し、母の故郷山形県の車麩をずいぶん食べていないことを思い出していた。 沖縄が返還された1972年、私は愛知県豊橋市の小学6年生だった。この時の担任は心熱い先生で兄と共に通学した私を毎年各校から一名

モノを捨てる

ある歳になってからモノを増やさないようにしている。そして機会を見つけてモノを捨てるようにしている。あの世に持って行けるモノは何も無いと他界した両親との最後の付き合いで教えてもらった。残したモノは残る者に負担をかけるばかりたなのである。 と、わかっていながらも、まだ余分なモノはある、徐々に片付けていくつもりである。 今住む大阪府八尾市の清掃時工場を私が以前いたゼネコンで建設した。営業を担当した上司の営業部長とともに何度か足を運んだことがあった。もう30年も前のことだ。デカいな

怖いと思ったこと その4

ゼネコン時代のことである。 関西のある地方都市の営業所に配属され、右も左も事情の分からぬままマンション新築の地元対応の責任者を拝命していた。 それこそ右往左往しながら毎日を送っていた頃である。 その頃、所長が一日の長い時間を使って建築・土木の責任者と打ち合わせをしていた。 この所長はややこしい話、人に聞かれたくない話を半径1m先の人間に聴かせない特技を持っていた。 やばい話だなと思い、触れないでいたが所長から説明があった。 「施工したプールで事故があった」と。 小さな子ど

怖いと思ったこと その3

昨日、金曜日の夜に合気道の稽古から帰ると金曜ロードショーで『崖の上のポニョ』をやっていた。 後半の少しだけだったが、初めて観た。 この舞台となった鞆の浦のある広島県福山市まで何度か行ったことがある。 その頃からずっと気になっていた宮崎作品であった。 福山まで行ったのはある方の自宅の移築の監修を頼まれてのことであった。 設計事務所時代にたまたま付き合いをしたシステム会社の社長がいらっしゃる。 私がゼネコン時代に付き合いをした日本を代表するコンピューターのメーカーでありシステ

夏きたりなば

肌で感じる夏を迎える前のこんな時期が好きである。 人生の折り返し地点をずいぶん前にクルリと回り(これがいつだったのか不明だが、ひょっとしたらもうゴールは目の前かも知れないのに)、やっと自分のことがポツリポツリと判り出す。 人生ってのはこんなもんなのだろう。 何がわかったかというと、一つは会社勤めは自分に向いていなかったという事である。 しかし、いろんな事をやったおかげでいろんな人に知り合うことができた。 いろんな事を考えることができた。 あと何年身体が自由に動くか