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自身の健康を考える

5月24日火曜日、八尾から見える生駒の山々の背景にはすでに積乱雲を思わせる真っ白な大きな雲が立つ。

暑い。

そして、その暑さを感じなかった両親を思い出す。
晩年の父に、毎月の兄の診察に行く車の運転を任せることは出来なかった。
会社を休み、前日に愛知の実家に泊まり翌朝早くに家族全員で静岡に向かった。

五月の東名高速添いの山々の新緑はまぶしかった。
そして暖かさを通り越した日差しは半袖のTシャツ一枚の私にうっすら汗をかかせた。

しかし、自身で判断の出来なくなっていた母は毛糸のカーデガンを羽織り、父は母の手編みのベストを着ていた。

その頃母はひどく悪化したアルツハイマーのせいで違う人間となっていた。絶えず喧嘩を繰り返す父には母に対する愛情はもう無かったに違いない。
それでも母の編んだベストと同化するかのようにいつも身に付けていたのであった。
途中、浜名湖のサービスエリアで美味そうに熱い静岡おでんを食べる父を不思議そうな顔をして私は見ていたに違いない。

歳を取るとはそういう事だという方がいる。
でも、自身の衰えを感じながら歳を重ねていけばそんなことは無いような気がする。

還暦を迎える前から私は自身の体調の変化を感じていた。
腰にこれ以上無理はかけれないと感じていた。
膝は軋みだしていた。

でもそれを異常だとは思わなかった。
使ってきたものであるから仕方が無い。
使えば金だって無くなる。
未来永劫などあり得ないのだ。

ここまで動いてくれたことに感謝をしながら、今の身体と付き合っていかねばならない。

私の合気道も変わって行くのであろう。
歳とともに技が変わると先輩方が言っていたが、こんなことを言うのであろうか。
『歳とともに円熟味を増し、、』などという美辞にはほど遠い。
でも、現実とはそんなものであるのだろう。

分からなかったことが歳を重ねるとともに、だんだん分かってくるようになる。
まだまだ若造と、お叱りを受けるかも知れないが、今のこの年齢での私の感想である。
年齢なりの健康の大切さを感じ、年齢なりの幸せも感じているのである。

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