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モノを捨てる

ある歳になってからモノを増やさないようにしている。そして機会を見つけてモノを捨てるようにしている。あの世に持って行けるモノは何も無いと他界した両親との最後の付き合いで教えてもらった。残したモノは残る者に負担をかけるばかりたなのである。
と、わかっていながらも、まだ余分なモノはある、徐々に片付けていくつもりである。

今住む大阪府八尾市の清掃時工場を私が以前いたゼネコンで建設した。営業を担当した上司の営業部長とともに何度か足を運んだことがあった。もう30年も前のことだ。デカいなぁ、というのがその時の印象だったその清掃工場は今見てもデカい。巨大な焼却炉は高温でなんでも焼く。しかし、なんでも焼くと炉は傷み耐久年数が落ちてしまう。数億、数十億の炉の取り替えは簡単には出来ない。だからゴミの分別が必要なのである。

現在ではモノは長く使うことを考えなければならないのであろうが、モノと言えども命あるものであって未来永劫使えるモノなど無い。将来的な処分を考えあわせたモノ作りも考えなければならないと思う。

たまたまであるが清掃工場の近くに北海道の家具屋の大型店舗がある。飲み屋を始める前にいた設計事務所でそこの設計の手伝いをいくつかした。その時に、その家具屋の役員に『最初から捨てる家具』の発想をアメリカから持ち込んだと札幌でジンギスカン鍋をつつきながら聞いたことがある。
最初から処分である。処分の発想の出所が違うのである。安い商品をどんどん作りどんどん買ってもらい、どんどん捨ててもらうそんなサイクルの発想である。

この時世、その家具屋はそんな事を胸を張って言うことは無いであろう。しかし、当時はそんな時代だったのである。そんなモノに対する考え方が対象地点にあるような2つの建物が近接して存在している。

もともと家具というものは、その名の通り家に備え付けられる道具という意味で、家に準ずるモノなのではないだろうか。ひと昔前は嫁入り道具の一つでもあって、家具は子どもや孫の代まで使える環境に優しいモノだったのではないだろうか。本来、家と同様長く大切に使うモノなのではないだろうか。

新しいモノをどんどん作り、どんどん買ってもらい経済を活性させる時代は終わっている。
でも、私は闇雲になんでも『もったいない』というのは好きではない。

その時の気持ちだって大事にしたいと思う。
難しい問題であるが、ただ買い替えて済む時代ではなくなってきているからには、走り出す前によくよく考えることが必要であろう。
本当に欲しいモノを見極めて、余計なモノは買わないこと、モノを必要以上に増やさないことが一番であろうと思っている。

ただ、理想と現実があるのである。
私はただの人間である。

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