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小笠原先生の話

沖縄が日本に返還された日、それも50回目の記念の日、ここ最近話題は集中していた。

NHK朝ドラ『ちむどんどん』をみている。
仲間由紀恵がお母さん役、容姿、性格とも美人三人姉妹に驚く。
家族で囲むフーチャンプルーは美味そうだった。食べたことのない沖縄の麩はどんな食感なのだろうと想像し、母の故郷山形県の車麩をずいぶん食べていないことを思い出していた。

沖縄が返還された1972年、私は愛知県豊橋市の小学6年生だった。この時の担任は心熱い先生で兄と共に通学した私を毎年各校から一名だけ選ばれる愛知県児童顕彰というのに推薦してくれて名古屋までその受賞に行ったことがある。
その後も疎遠になりながらも先生が亡くなるまでお付き合いさせてもらった。
だから、その時に沖縄の話を聞いたならばはっきり記憶に残っているはずなのである。
しかし、この沖縄の話をしてくれたのは別の先生なのである。

時間を遡ることそこから4年ほど、私は転校する前の豊川市の小学校にいた。
小学1,2年の担任の小笠原先生から沖縄の話を聞いたのである。
沖縄が日本に戻る前に聞いたのである。
なぜそんな話をまだ幼い私たちに小笠原先生はしてくれたのであろう。しかも、返還前の時期に。

私の記憶が輻輳してしまったのか、後から作り上がった嘘なのか、これまで何度か記憶の糸を手繰ってきたが、分からなかった。

小笠原先生は年配の優しい女性の先生だった。今考えれば幼稚園、保育園児とさほど変わらない私たちの面倒を見るのには大変だったのではないだろうかと思う。
そんな子ども等の面倒を見る母親という女性像ではなく、私は教育者としての人間像を小笠原先生から思い出すのである。
本当に子どもである私たちを一個の人間として扱ってくれた方と記憶に残っている。

沖縄は第二次世界大戦後アメリカになってしまい、自動車は右側を走ること、アメリカの通貨で支払いをすることを小笠原先生は話してくれた。
それがとても驚きであった。

深くは考えなかったのだがずっと考えていた。どうして小笠原先生は私たちに話をしたのかを。
でも、それが今日判明した。
たぶん判明した。

54年前、沖縄復帰のまだ4年前の1968年6月26日小笠原諸島がアメリカから日本に返還された。
その日に小笠原先生は私たちにそんな話をしてくれたのだろう。
小学2年生に小笠原諸島返還の話は複雑でわかりにくいと思ったのかも知れない。それで引き合いに当時まだ支配下にあった沖縄の日常を話してくれたのかも知れない。

小笠原諸島返還の話は小学2年の子どもを対象にする話題なのだろうか。
いつか思い出して考えて欲しかったのだろうか。
たまたま名字が『小笠原』だったからなのか。
私のかすれたセピア色の記憶では小笠原村のご出身だったような気がする。

謎だった記憶が、昨日の菊池正夫さんの記事を読みながらゆるゆると紐解けたようだった。
54年も前に小笠原先生が仕掛けた時限爆弾が今やっと発火してこれから爆発するのかも知れない。

小笠原の復帰54回目をもうすぐ迎える。


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