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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
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これまでの記事で書き落としたことのまとめ,2023年5月6日


 
 
 
 
https://note.com/meta13c/n/n7575b6c0826b

この記事の注意点などを記しました。

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注意


 
 これらの重要な情報を明かします。
 
漫画
 
 
 
 
『あたしンち』
『PLUTO』
『斉木楠雄のΨ難』
『新クレヨンしんちゃん』
『銀河パトロールジャコ』
『キミのお金はどこに消えるのか』
『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』
『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』
『マンガで分かる心療内科』
『マンガで分かる心療内科 アドラー心理学編』
『ドラゴンボール』
『ドラゴンボール超』
 
アニメ映画
 
『ドラゴンボール超 ブロリー』
 
実写映画
 
『ターミネーター2』
『ターミネーター3』
『アイ・ロボット』
 
小説
 
『二重螺旋の悪魔』
『ウルトラマンデュアル2』
 
 
テレビアニメ
 
 
 
『ドラゴンボールZ』
『ドラゴンボール超』
 
 
 
 
 
 
 

はじめに


 
 これまでの記事で書き落とした、経済学や心理学や政治学の扱いをここに記します。
 
 
 
 

アドラー心理学の目的論について


 
 

2023年5月6日閲覧
 
 
 
 
 個人心理学、アドラー心理学は、原因より目的を重視して、社会的な原因より個人の目的を重視して、前向きにさせる自己啓発の原点のような要素があるとされます。
 「辛いことがあったから、後ろ向きな行動をする、前向きな行動をしない」という主張をアドラー心理学で、「みんなが同じ辛い目で同じことをするとは限らないのだから、原因に意味はなく、大事なのはそうしたいという目的だ」と否定するところもあります。
 しかし、私は『NARUTO』のうちはオビトについて、戦争で仲間が死んだなどの辛い目だけでは説明出来ない、敵を殺す罪悪感の欠如から、「仲間のために敵を殺したい」というオビトの目的が変わっていないところ、しかしそれは「自分と同じ夢などの目的を持つ敵に遭遇したことがない、そのような敵と法律的に対立せざるを得ない状況を知らなかった」などの社会的な原因も無視出来ないことに注目しました。
 アドラー心理学は、社会的な原因との結び付きについて、「みんながその原因でその行動をするとは限らない」で否定するところはあるものの、それで個人の目的に還元するのは短絡的だと考えました。
 人間の行動は、「慈善事業をしたいからお金を稼ぎたい」、「ライバルを追い抜きたいからお金を稼ぎたい」などの、複数の目的、願望、意見の繋がりでも形成されており、「みんなが最初の目的で次の目的を選ぶとは限らないだろう」と否定してしまえば、アドラー心理学の論法で残るのは「食べるのは食べたいからだ」といった同語反復のような目的論しか残らないと、私は考えました。
 行動を支えるのは「そうしたい」という意見、目的なので、その意味で、行動を説明するために原因という事実よりは一枚上手ですが、一枚でしかなく、「その行動、そうしたい目的という意見、その前提の原因という事実、その事実を作り出した過去の行動、その目的」などの交互に事実と意見が重なり合うとも言えるので、目的論は原因論より一歩先にあるものでしかないとも考えています。
 
 

アドラー心理学とソクラテスと法律や政治の問題


 
 さらに、岸見一郎さんのアドラー心理学を紹介した書籍では、ソクラテスの死を巡るたとえもあります。
 ギリシャ哲学には、質料、形相けいそう、作用、目的の4つの原因があります。机を作るならば、木などの材料が質料、机の形が形相、誰が作ったかが作用、作業をするためなどが目的です。
 大まかに言えば、政府に逆らい哲学を唱え続けて死罪になったソクラテスは、獄中で逃げられたにもかかわらず、「自分が今こうしていて、逃げたい目的があるならとっくにそうしていたはずだ。そうでないなら自分は逃げたくないはずだ」と主張して自殺したらしく、この命を懸けた哲学、目的論を岸見さんはアドラー心理学でも重視しています。
 しかしこのソクラテスの過酷な哲学の貫徹は、解釈次第では「どれほど酷い労働でも法律でも逃げるな」という論理の正当化にもなりかねません。
 ソクラテスはあくまで国の理不尽な命令に逆らってでも哲学を進めたのであり、それで投獄されて死罪になっても、それから逃げなかったのですが、それをたとえば、国の理不尽な法律や会社の理不尽な職務においても、「自分がこの国に逆らいたいならとっくにそうしているはずだ。職場に逆らいたいならばとっくに辞めているはずだ。今そうしていないなら逃げないことにしよう」と、上司や国に黙って従う論理に使えばおかしいはずです。
 そもそもソクラテスは処刑の執行に従ったのではなく、自殺しています。逃げてはいないものの、国に逆らい続けてはいます。
 また、『マンガで分かる心療内科』のアドラー心理学編でも、「行動しない人は、したくないという目的に向かって進んでいる」から「かわいそうな人なんていない」と断言しています。
 しかしそれでは、かつてあった奴隷労働をしていた人間も、『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』で「現代の奴隷ではないのか」と言われるほど低賃金で働く現代の日本などの人間も、「かわいそうではない」ことになります。同情と共感の違いはともかく、このように社会として助けなければならないと言われるはずの人間でさえ、アドラー心理学は「今そうなるまでに防ぐ行動をしていないのは、そうなりたかったからだ」と現状追認になるおそれがあります。
 『マンガで分かる心療内科 アドラー心理学編』では、「一億稼いでいるチェーン社長がさらに十億稼ぐのは、そうして事業を広げて人を幸せにするのが自分の幸せだから」と肯定的に扱っていますが、そのようにして経済格差を正当化して、経済的な強者を放置して、税金や政策について国家に是正を求めないところが『マンガで分かる心療内科』シリーズにあります。
 岸見さんの書籍でも、「アドラーはかつて社会主義運動をしていたが、政治では社会を変えられないと考えて教育に取り組んだ」とあります。
 このため、政治的な社会変革の視点、特に経済的、あるいは法的な強者に物申す視点が欠けているのが、岸見さんと『マンガで分かる心療内科』シリーズに通じる、アドラー心理学と繋がる問題点だと考えます。
 
 
 

アドラーの個人心理学とアダム・スミスの古典派経済学の「自発的失業」


 
 
 
 また、アドラー心理学を岸見さんが解説する『幸せになる勇気』では、「個々人が利己的に振る舞うことで市場から経済秩序が生まれる」というアダム・スミスの『国富論』などの経済理論を参考に挙げています。
 しかし、この理論が既にかなり前から古いと言われていることは経済では珍しくありません。『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』で、「様々な時代の社会に起こって来た自己責任論的な考え」の1つとして、このアダム・スミスの古典派経済学での「自発的失業」という概念が挙げられます。ナツメ社の『ケインズ経済学』などを踏まえますと、アダム・スミスの古典派経済学では、雇用は需要と供給で決まり、失業者は低賃金などの雇用条件に不満を抱く、つまりわがままな「自発的な失業者」しかいないとされました。これに、恐慌が起きたことで失業者があふれていた時代の経済学者のケインズは、「今の失業者が全員自発的にそうなったはずがない」と、景気改善のために「国による無駄な公共事業」を重視したようです。
中野剛志さんの『奇跡の経済教室 戦略編』でも、個々人の合理的な経済活動が、不景気での消費を抑えることによるデフレスパイラルを起こしてしまい、かえって不景気を悪化させるので、そのときは国の非合理的な公共事業などが必要だとあります。この「個々人の合理的な行動が社会全体で非合理的な動きになる」のを、合成の誤謬と呼ぶそうです。
 つまり、個々人の利己的かつ合理的な動きを想定するだけで、需要と供給により仕事や商業が上手くいくという古典派経済学が導き出す、「今上手くいっていない失業者は自発的にそうなっている」という概念が、偶然かはともかく、アドラーの個人心理学と相性が良いとみられます。アドラー心理学において、目的論を過大視すれば、「ならば失業した人はそうなりたいからそうなったのか?自発的失業者しかいないからかわいそうではないというのか?」という疑問が発生すると言えます。また、古典派経済学に当てはまらない不景気による非自発的失業者を助けるためには、アドラーが軽視した政治、国による公共事業なども重要なのでしょう。
 ただし、岸見さんが翻訳した『アドラーの生涯』の索引にアダム・スミスが見当たらないので、そもそもアダム・スミスとの関係は岸見さん独自の概念かもしれませんが、意図せずに「目的論」と「自発的失業」が繋がるおそれはあります。
 
 
 

アドラー心理学を政治や企業に適用する主張もある


 
 一方フロイトとアドラーの心理学を扱う題名の書籍を書いた和田秀樹さんは、「社会的に目立つ目的で犯罪をする人間がおり、マスコミやメディアの報道などは犯罪抑止のために逆効果だ」と主張するところもあります。つまり、マスコミやメディアなどの企業の仕事が犯罪を助長する可能性があるとして、アドラー心理学の目的論を踏まえて、経済的な動きにも注目しています。依存症が、日本では広告やCMなどの「依存症ビジネス」による影響も大きいと、日本の広告業なども批判しています。
 また、「サイコパスが人口の何パーセントかいる以上は、厳罰でしか犯罪を防げない可能性がある」と、法律にも言及しています。
また、フロイトとアドラーの心理学以外にも、様々な心理学を紹介しており、「この心理学は、ある時期のアメリカの比較的裕福な人間には有効だったが、それ以降や他の場所では違った」というように、国などの政治、経済的状況の変化に注目しており、政治的な視点があります。
 岸見さんや『マンガで分かる心療内科』と異なり、アドラー心理学を扱っても、政治や経済に注目する人はいるようです。
 心理学と経済の関係では、『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』の行動経済学や、もぐらさんの『実はヤバい実験心理学』などが重要そうです。「自分より下だと思っている人間が幸せになるのが許せない」地位財、「給料に不満を言うのは低俗だと思う心理」、「少ない給料で従う自分を正当化するために、心の底から仕事をしたいという願望が生まれる」などが紹介されています。
 
 
 
 

仏教における「自殺と牛」のたとえの出典が見つからない


 
 『マンガで分かる心療内科』で、「釈迦は死後の地獄や極楽を語っておらず、仏教にあるそれは後世の影響である。自殺について釈迦は、牛車の牛が暴れることをたとえにしている」とあります。
 しかしこれについて、出典と、その主張と現状追認の可能性が気になります。
 この漫画でのたとえは、重い荷物を引かされる牛が逆らって暴れれば、二度と暴れないように主人がさらに重い荷物を引かせるだろう。今の苦しみに逆らって別の人生を求めて死んでも、その先がさらに苦しいかもしれないだろう」という趣旨の主張で、そう釈迦が説明したとされます。
 まず、これを私は図書館でレファレンスしたものの、出典が見当たりませんでした。仏教関係のサイトにあるものの、その出典は見当たりません。
 オックスフォードの仏教辞典には、「自殺するとさらに苦しみが増える」という趣旨の記述はありますが、これは仏教では生きることそのものに「苦」があるという前提を重視すべきです。また、仏教の『故事名言辞典』では、「屠所の羊」という項目に、人間が死に向かっていくのは、家畜が屠られる場所に向かうように避けられないという趣旨のたとえがあります。
 この、「自殺すると苦しみが増す」、「人間の死を家畜にたとえる」ところが混同されたのではないか、とも考えています。
 
 
 

『マンガで分かる心療内科』全体の問題点と「自殺と牛」の問題点


 
 
 さらに、このたとえで「自殺するな」という意味では前向きでも、「奴隷は主人に逆らうな」という意味にも取れてしまいます。「奴隷が酷い労働をさせられても、逆らえば罰でさらに酷い目に遭うかもしれないから逆らうな」という解釈をされる可能性もあります。
 ちなみに、ファンタジーの資料では、かつて奴隷は、「貴重な家畜」だからこそかえって鞭で打たれることは少なかったという悲惨な記述もあります。
 つまり、『マンガで分かる心療内科』はアドラー心理学だけでなく、この出典不明の「牛が主人に逆らうとさらに酷い目に遭うからやめろ」という趣旨の「自殺を止める」主張が、奴隷や労働者に置き換えると、ブラック企業や理不尽な国家の命令にも従う現状を追認し続ける論理になりかねません。
 これが『マンガで分かる心療内科』シリーズの問題だと考えています。劇中に、看護師でありながら医院を経営するこがねという人物が、社員のストレスチェックをする場面がありますが、ギャグばかりであまり労働者法などを重視しているか分かりません。
 
 
 
 
 

キリスト教における「宣教師が日本人に、知らない先祖は地獄に堕ちるのかと論破された」の出典


 
 
 また、仏教とは「自殺」の扱いが異なるらしいキリスト教についても、出典不明のうわさをネットで見ました。
 戦国時代の日本に来たキリスト教の宣教師が、「その教えに帰依しないと人間は地獄に堕ちると言うが、我々の先祖は知らずに死んだので地獄に行くのか。知らなかっただけの人を救えないのか」と、日本人に論破されたといううわさを、日本人称賛やキリスト教批判に使うことがネットにみられますが、探してもその出典が見当たらないので、俗説だと私はみなしていました。
 けれども、『日本人は本当に無宗教なのか』という書籍を何となくめくったところ、『聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄 下』にそのようなくだりがあると見つけました。
 司馬遼太郎の『街道をゆく』にも、その紹介をしたところがあります。もっとも、1988年に書かれたこの書籍の時点で、この『聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄 下』は貴重な書籍だったらしく、何故ネットに流布しているのか分かりませんが。
 そして実際に読んだところ、ザビエルが手紙に書いたのは、既に耶蘇教(キリスト教)の信者になった日本人が、「私の先祖は知らずに死んだから今地獄にいるのですか。救えませんか」と泣いているのを、「その手段はないと私は答えるしかない。私も悲しくなる」と書いていたのと、「知らない先祖を救えないのか」に反論しているところがあり、論破されたわけではないようです。ちなみに、司馬遼太郎は、「仏教では、先祖のあの世での扱いを変えるために追善供養という行いを子孫が行うことが出来る」と比較しています。
 そもそも、先祖の扱いに限らず、それまでキリスト教を知らなかったまま死んだ人間が帰依しなかったから地獄に堕ちるのか、という疑問は何故日本以外で挙がらなかったのか、という違和感があります。
 ちなみに、これを扱う『ヱヴァンゲリヲン研究序説:Q』では、「宣教師が答えられなかった」と書き、当時の日本の禅僧でありキリスト教に入信したものの棄教した不干斎ハビアンという人物の書籍『妙貞問答』、『破提宇子』にそれへの回答があることを紹介しています。
 
 

「人のため」より「人の何かのため」が正確ではないか


 

 
2023年5月6日閲覧
 
 
 私は、人間は「自分のx」しか考えられないとみなしています。ただそのxに、法律の国か自治体、貨幣の職場か学校、遺伝子の家庭や恋愛相手、文化の宗教や友人関係などの共同体の主に4通りの概念を代入するかの違いしかないと考えています。
 家庭でのトラブルや事情で職場に負担をかける人間は、「自分の家庭を自分の職場より優先している」に過ぎず、家庭を軽視して職場ばかり重視する人間はその逆に過ぎず、それを「あいつは自分の(家庭の)ことしか考えていない。(自分の)職場の周りの人間のことを考えていない」というように都合良く省略するために、利己的か利他的かに分けて見えているに過ぎないと推測しています。
 そして、私は「誰かのためって自分のためだろう」というような主張も時折みかけます。『ウルトラマンデュアル2』などにありました。
 しかし、そもそも「人のため」か「自分のため」か、というくくりが論理的に雑だと考えています。正確には、「人の何かのため」、「人と自分を繋ぐ何かのため」というべきだと、今は推測しています。
 たとえば、日本や韓国は男性が家事をする時間が短いらしいですが、そういった「稼ぎ頭」のつもりの家庭の男性も、おそらく「家族のため」のつもりなのでしょう。しかし、それは「家族の全て」のためではなく、「家族の貨幣」のための労働でしかないと私は考えます。先ほどの4つの繋がりで言えば、人間が自国民を心配するのは法律の繋がりのためであり、職場の仲間を心配するのは貨幣の繋がりのためであり、家族を心配するのは遺伝子の繋がりのためであり、同じ宗教の教徒を心配するのは文化の繋がりのためでしかなく、家事をせずに仕事に打ち込んで来た日本などの男性は、つまるところ家族と貨幣でしか繋がっていないのでしょう。
 「人のため」ではなく、「自分のため」でもなく、人と自分を繋ぐ「何の繋がり」のために行動していたかが重要です。
 しかし、どんな人間の家族も、貨幣だけでは生きられません。理想論や精神論ではなく、単に貨幣は何かの食糧や衣服や住居に交換しなければ価値がなく、おそらく家事をせずに「労働」だけする男性は、家族の使う貨幣を稼ぐ労働と比べて、その貨幣を家族が必要な形に交換する労働を「自分の労働のおまけ」のようにしか捉えていなかったのが勘違いの始まりだとみられます。
 そして、仮にそういった男性が「家族のこと」を考えていたとしても、「お金のための労働の代わりに、他のことをする時間が減るのは仕方がないだろう」という推測で、「家族の貨幣」を「家族の生活のための他の労働」より優先し、その優先順位を一方的に決めるのを「家族のため」だと強制していた可能性があります。そこに「善意での強制」、パターナリズムがあるとみられます。
 「人と自分の特定の繋がり」のためにしか自分が行動出来ないのを、「人全体のため」と雑にくくるのが、パターナリズムも含めて、人間への善意を歪ませる根源の1つだと、私は推測しています。
 『新クレヨンしんちゃん』で、妻のみさえに邪険にされたとみなしたひろしが「家族のためにがんばっているのに。みさえは俺のことを、安月給を引き出すATMとしか思っていないんだ」と嘆く場面がありました。しかしそれは、それこそ「家族の貨幣」の心配しかせずに家事をしなければ、家族に「貨幣で助けてくれる相手」としか思われない可能性を示しています。「家族の貨幣のため」を「家族全体のため」と錯覚しているおそれがあります。もちろん「貨幣で助けてくれる恩人」と、「貨幣を出す道具」であるATMの違いも無視出来ませんが。
 

四原因と質問への答え方


 
2023年5月6日閲覧
 
 
 
 先ほど、ギリシャ哲学における質料因、形相因、作用因、目的因の4つの原因を挙げました。
 これは、「質問への答え方」などにも通じるところがあります。
 たとえば、『ターミネーター2』で、何故味方のターミネーターの101型が高熱の中に、サラによって沈めてもらったかについて、『3』での設定を踏まえて、こう答えられます。質料因ならば「101型の痕跡を残さないほど徹底して処分するには高熱しかないからだ」、形相因ならば「101型には自己破壊は出来ないが、任務を終えれば人間に処分してもらうプログラムがあるからだ」、作用因ならば「『2』の未来のジョンがそうプログラムしたからだ」、目的因ならば「たとえ人間を助けたターミネーターであっても、未来に新しい技術が広まる危険をなくすためには破壊しなければならないとジョンがみなしているからだ」というような答えがおそらく可能です。
 そのような書籍を読んだわけではありませんが、私はロボットについて、物質的なところのハードウェアを質料、プログラムなどの電子的なソフトウェアを形相、誰が作ったかを作用、その作られた目的をそのまま目的因に区切っています。
 『PLUTO』原作では、いわゆるロボット三原則をモチーフとしたような、「ロボットは人を殺さない」という常識があり、それを何故かと、犯罪者かもしれないロボットに問われた科学者のお茶の水は、「我々がそう作ったからだ」と返しています。しかし、これは作用因、誰がそのようにしたかの答えでしかなく、ロボットのソフトに当たるプログラムを扱う、おそらく形相因の答えにならないのでしょう。また、劇中のロボットは人間を一発で粉々に出来る武器を持つ機体もおり、「安全対策にも間違いはあるだろう!」と批判する人間が、ロボット排斥団体の仕向けたとはいえ、登場しています。
つまり、高い威力の武器を使うという質料やハードの問題の危険性を、それを間違えない安全のためのプログラムであるソフトの形相の段階で否定しても、絶対に間違えないという保証が出来ないことになります。そして、「科学者が、ロボットが人を殺さないように作った」というのはあくまで作用の答えにしかならず、哲学の論理としてずれているのでしょう。
 軽めの話題に変えますと、テレビ番組『チコちゃんに叱られる!』で、科学や文化について質問するときに、「○○さんが××したから」という答えが時折ありますが、これはまさしく作用因の答えであり、ゲストの「間違っている」答えは質料や形相や目的でずれている可能性があります。
 
 

四原因とキリスト教とロボット


 
 
 
 なお、映画『アイ・ロボット』ではロボットが「私達は目的があって作られる」と話しており、アメリカのSFにはキリスト教の影響が強いらしいのですが、ロボットにも「人間を超える強さのハードの質料」、「人間を超える計算能力や記憶能力などのソフトの形相」があっても、それを作った人間がいるという作用、そしてその目的がある以上は人間を重視するという論理がおそらくあります。
 しかし、これを「神が人を作った」というキリスト教の教義に当てはめると、「人間が神に作られたのも何らかの目的があるとすれば、それに人間は従うべきだ」という論理にもなります。それを悲惨に指摘したのが『二重螺旋の悪魔』です。
 なお、『二重螺旋の悪魔』でも指摘されるダンテの『神曲』の天国編の後半に、世界は質料と形相とその結合で表されるという趣旨の説明があります。質料は地球などの物質、形相は天使だそうです。
 また、本川達雄さんの生物学から科学を振り返った書籍では、「四原因のうち、科学では原子の動きなどの作用因を主に扱って来た。質料は原子などの作用因に還元しやすく、形相はものの本質がはっきりしないから駄目で、目的は物質や生物に適用すると神にまで辿らなければならないので駄目で、作用だけが残る」とあります。
 形相とは、人間の場合「天使」のような曖昧な本質を指すようです。
 ロボットの質料を「作り主がそう作ったからだ」という作用では、『PLUTO』では答えやすくても、ロボットの真の形相はプログラムにあるのか、そもそも魂があるのかという疑問が難しく、さらに作り主の目的はロボット自身と切り離された質問になりやすいのでしょう。
 しかし、ロボットを人間に置き換えると、やはり宗教的にも難しい質問になりそうです。
 
 
 
 
 

『あたしンち』のエアコンとナショナリズムの言語


 
 
 
 『あたしンち』原作2巻で、夫婦2人と姉と弟の4人家族の家に、エアコンが夫婦の部屋にしかないことに子供達が不満を言うと、「うちは貧乏だから買えない」と母が話し、それでも不平の残る子供達に母は「買ったとして、どっちの部屋に付けるの?」と質問し、それぞれ自分の部屋に求め、「そうやって言い争いになるから買わないの、あえて」と母は勝ち誇ったように言い、「それは嘘だ」と思いつつも子供達は言い返せませんでした。
 実は、このような釈然としない強制が、政治にもあります。植民地支配の言語の統一についてであり、ナショナリズムにもかかわります。
 ナショナリズムを説明する書籍として有名な『民族とナショナリズム』では、ヨーロッパなどによる植民地支配では、本国の言葉を、植民地の民衆に統一して使わせることが重要だったとあります。この言語による統一が、国家の概念を明確にしたそうです。
 しかし、「仮に本国の言語への統一に反対するとしても、植民地の言葉が元々複数に分かれているのだから、どの言葉に統一しても不満が残ってしまう」という趣旨の説明があります。つまり、支配する側の都合に合わせるのはおかしいと反論しても、される側同士も対立する可能性があり、支配される側が反発しても、「なら誰の都合に合わせるのか」という疑問が残るわけです。
 『あたしンち』でも、エアコンの決定権を持つ母の都合で、貧乏だから買わないと言っても、反対する子供が複数いるため、その子供同士で都合を押し付け合うのだからと、決定する母だけのせいには出来なくなります。
 といって、植民地支配そのものを言語の壁という問題だけでなくせと言うのは難しく、エアコンだけで中学生の弟と高校生の姉が家を出て暮らしたり自分で買ったりするのも難しいと言えます。その主導権はどうしても、植民地側ではなく本国、子供ではなく母親にあります。
 「支配」そのものを避けられない場合、支配される側がする側より多い場合、される側同士の争いを避けるためにはする側に合わせるしかないという強引な、釈然としにくい、しかし反論もしにくい論理があります。
 ナショナリズムは、「支配する我々が、される側同士の争いを防ぐためにも、される側のためにも言語を統一すべきだ」という善意の強制、パターナリズムにも通じるかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 

『二重螺旋の悪魔』と『銀河パトロールジャコ』


 

 
2023年5月6日閲覧
 
 
 
 『二重螺旋の悪魔』は、バイオテクノロジーの暴走で人間のDNAに封じ込められていた怪物「GOO(ジー・ダブル・オー)」が目覚める戦いの物語ですが、そのGOOは、マルクスの『資本論』などの、資本主義の象徴のように見えるところがあります。
 佐藤優さんの書籍なども踏まえますと、マルクスの『資本論』では、労働者の賃金の使い道は明日の自分の生活、自分の家族という次世代の生活や教育、新しい技術に対応する自分自身の教育の3つに分類されています。
 GOOは生まれて直ぐに情報をコンピューターのように読み込めるらしく、そのため教育の必要がない代わりに、「若い」という概念があっても、「子供」という概念がないそうです。つまり、次世代の教育のための「子供への情」もなく、自分自身の教育もほとんど必要ないのでしょう。GOOの社会にも労使紛争や愛玩動物の概念はあるらしく、おそらく給料や楽しみの概念はあるのでしょうが、人間より繁殖や記憶をしやすいこの生物は、賃金の使い道を3つのうち1番目だけに絞れる合理的なところがみられます。
 人間とGOOが「互いに見た目で嫌悪し合っている」こと、共にある存在に利用されていたところを、私は『ドラゴンボール超』のサイヤ人とフリーザの関係に似ているとみなしていました。
 人間に比べてGOOは爬虫類に近い外見のようですが、サイヤ人は人間に近く、フリーザは「トカゲ」のようにみられることもあり、悪人としての目的は同じながら互いに「何となく気に入らない」らしく、共に破壊神ビルスに破壊されそうになっていました。
 しかし、フリーザ軍を知っていながら、その部下のサイヤ人の子供が侵略で送り込まれたのを殺すぐらいのことしか出来ない、宇宙人の警察組織と言える銀河パトロールのジャコは、前日談で、宇宙の科学技術で脳に情報をインプットしたというものの、有料の情報はしておらず、あまり給料を稼げていない、優秀でないところがみられます。
 一見勉強の必要のなさそうな、高度な技術を持つ宇宙人でも、経済の概念を持つと、「有料の情報はインプット出来ない」などの事情で無知になり、それはGOOに似ているかもしれません。
 フリーザ軍も単なる暴力ではなくビジネスとしての戦いを重視しているようですし、ジャコの銀河パトロールもそれに通じるかもしれません。
 
 
 
 
 
 

「奇声」がテレパシーで聞こえても、「奇声をあげる気持ち」はテレパシーでは分からない


2023年5月6日閲覧
 

2023年5月6日閲覧
 
 
 
 私は、「気持ちを分かれ」という表現について、テレパシーでも分からない気持ちがあると推測しています。たとえば、テレパシーの使えない人間の気持ちなどです。
 その意味で、『斉木楠雄のΨ難』原作で、重要なくだりがありました。
 テレパシーや透視などの超能力を使えるものの、制御が難しく、女性の内臓や筋肉なども見えてしまうので、恋愛への興味を持てない主人公の男子高校生の斉木は、周りの「心の声」も基本的に読み取ってしまうので、冷めたところがあります。
 しかし、学校の「マドンナ」だと自認する照橋が、「どんな男も私にかかればイチコロ」というようなプライドを持つことを見抜いていた斉木が、偶然町で会ったときのことです。
 照橋に会うと、たいていの男子は「おっふ」という奇声をあげて動揺するほど外見の印象は良いようですが、斉木にそれが通じず、「何でこいつだけ」、「振り向かせてやる」と空回りした接近を照橋は続けました。そしていつの間にか(人目を避けて瞬間移動した)斉木が気になって仕方がなくなった彼女は、「私、あいつに惚れてる?」と動揺して、その「心の声」を聞いた斉木は、別の意味で「おっふ」という奇声をナレーションでしました。
 斉木は、照橋の汚い内面が見えない男子が「おっふ」という奇声をあげるときの動揺などはテレパシーで理解しつつも、自分が同じ奇声を自発的にあげるまでは、「おっふ」と言う人間の「気持ち」を理解出来なかったと言えるかもしれません。
 これも、「テレパシーの使えない人間の気持ち」を、「テレパシーの使える」からこそ、同じ立場になり得ないからこそ分からないとも言えるかもしれません。
 
 

まとめ


 今回は四原因や目的論、それと政治や経済との関連性などの多い話題になりました。特に統一性はありませんが、ここに記します。
 
 
 
 

参考にした物語


 
 
 
漫画
 
 
けらえいこ,1995-2015,『あたしンち』,KADOKAWA
浦沢直樹×手塚治虫(作),2004-2009(発行期間),『PLUTO』,小学館(出版社)
麻生周一,2012-2018,『斉木楠雄のψ難』,集英社
臼井儀人&UYスタジオ,2012-(発行期間,未完),『新クレヨンしんちゃん』,双葉社(出版社)
鳥山明,2014,『銀河パトロール ジャコ』,集英社
井上純一/著,飯田泰之/監修,2018,『キミのお金はどこに消えるのか』,KADOKAWA
井上純一/著,アル・シャード/企画協力,2019,『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』,KADOKAWA
井上純一(著),アル・シャード(監修),2021,『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』,KADOKAWA
ゆうきゆう(原作),ソウ(作画),2014(発行),『マンガで分かる心療内科 アドラー心理学編』,少年画報社(出版社)
ゆうきゆう(原作),ソウ(作画),2010-(発行期間,未完),『マンガで分かる心療内科』,少年画報社(出版社)
鳥山明,1985-1995(発行期間),『ドラゴンボール』,集英社(出版社)
鳥山明(原作),とよたろう(作画),2016-(発行期間,未完),『ドラゴンボール超』,集英社(出版社)
もぐら,2022,『実はヤバい実験心理学』,竹書房
 
 
 
アニメ映画
 
長峯達也(監督),鳥山明(原作・脚本),2018年12月14日(公開日),『ドラゴンボール超 ブロリー』,東映(配給)
 
 
 
 
 
実写映画
 
 
ジェームズ・キャメロン(監督),ジェームズ・キャメロンほか(脚本),1991,『ターミネーター2』,トライスター・ピクチャーズ(配給)
ジョナサン・モストゥ(監督),ジョン・ブランカートほか(脚本),2003,『ターミネーター3』,ワーナー・ブラーズ(配給)
アレックス・プロヤス(監督),ジェフ・ヴィンターほか(脚本),2004,『アイ・ロボット』,20世紀フォックス
 
 
小説
 
 
 
 
 
梅原克文,1998,『二重螺旋の悪魔(上)』,角川ホラー文庫
梅原克文,1998,『二重螺旋の悪魔(下)』,角川ホラー文庫
梅原克文,1993,『二重螺旋の悪魔 上』,朝日ソノラマ
梅原克文,1993,『二重螺旋の悪魔 下』,朝日ソノラマ
三島浩司,2018,『ウルトラマンデュアル2』,早川書房
 
 
 
 
テレビアニメ
 
清水賢治(フジテレビプロデューサー),松井亜弥ほか(脚本),西尾大介(シリーズディレクター),小山高生(シリーズ構成),鳥山明(原作),1989-1996,『ドラゴンボールZ』,フジテレビ系列(放映局)
大野勉ほか(作画監督),冨岡淳広ほか(脚本),畑野森生ほか(シリーズディレクター),鳥山明(原作),2015-2018,『ドラゴンボール超』,フジテレビ系列(放映局)
 
 
 
 
 
 
 

参考文献


 
 
兠木励悟,2012,『ヱヴァンゲリヲン研究序説:Q』,晋遊舎
岸見一郎,1999,『アドラー心理学入門』,ベストセラーズ
アーネスト・ゲルナー/著,加藤節/監訳,2000,『民族とナショナリズム』,岩波書店
大澤真幸(編),2009,『ナショナリズム論・入門』,有斐閣アルマ
佐藤優,2014,『いま生きる「資本論」』,新潮社
池上彰,佐藤優,2015,『希望の資本論 私たちは資本主義の限界にどう向き合うか』,朝日新聞出版
岸見一郎,2016,『幸せになる勇気』,ダイヤモンド社
アルーべ神父,井上郁二/訳,1977,『聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄 下』,岩波文庫
須藤隆仙,1982,『仏教故事名言辞典』,新人物往来社
Damien Keuwon/著,末木文美士/監訳,豊嶋悠吾,2016,『オックスフォード仏教辞典』,朝倉書店
司馬遼太郎,1988,『街道をゆく 22 南蛮のみち』,朝日文庫
海老沢有道/訳,1964,『南蛮寺興廃記・邪教大意・妙貞問答・破提宇子』,平凡社
和田秀樹,2014,『比べてわかる!フロイトとアドラーの心理学』,青春出版社
岸見一郎,2017,『アドラーをじっくり読む』,中央公論出版
礫川全次,2019,『日本人は本当に無宗教なのか』,平凡社
滝川好夫,2010,『ケインズ経済学』,ナツメ社
中野剛志,2019,『全国民が読んだら歴史が変わる奇跡の経済教室 戦略編』,ベストセラーズ
エドワード・ホフマン/著,岸見一郎/訳,2005,『アドラーの生涯』,金子書店
矢内原忠雄/著,矢内原伊作ほか/編,1984,『ダンテ神曲講義 3 天国編』,みすず書房
ダンテ/著,寿岳文章/訳,1984,『神曲 天国編』,集英社
山北篤,2019,『シナリオのためのファンタジー事典』,SBクリエイティブ

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