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コップに注がれた海水を飲み干した私 Z世代のロシア青年水兵のストーリー

シベリア鉄道に乗ってロシアを周り、いろいろな人の個人的な物語を集めるプロジェクトМесто47。今回はある青年水兵の物語です。祖父から戦争の話を聞いて育ち、愛国的な教育を受けた少年は、成長して海軍の水兵となりました。若くして国に命をささげる覚悟があると語る彼にも、人生のパートナー選びに頭を悩ませるような青年らしい面が見え隠れします。将来のロシアを担う青年水兵は今何を思うのでしょうか。

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アンドレイ 21歳 水兵 極東、ウラジオストク

小さい時から母と二人きりでした。父は私が生まれる前にバイク事故で亡くなっています。母は私が小学生の時に大学を出たので、5年生の頃には身の回りのことは全て自分でやっていました。

子どものころ祖父はとても大きな存在で、子どもの私に軍人の制帽や短剣を見せては、軍人としての心構えを説いていました。祖父はチェチェンでの戦争に参加したので、あそこでどんな残虐なことがあったのか話してくれました。戦闘で仲間が倒れると、今度はその遺体をめぐって敵と激しい撃ち合いになります。相手はソ連兵の遺体を持ち去って辱め、その様子をビデオに収めるのです。戦友のなきがらを故郷の家族の元に帰すため、祖父の部隊は敵と一昼夜撃ち合いを続けました。曾祖母も1941年に従軍し、ベルリンまで攻め込んだ部隊に属していました。弾丸の破片で足に重傷を負い歩くことは出来なくなりました。彼女も子どもである私に配慮しつつ戦争の話をしてくれました。生涯に3つの赤星勲章を授与されています。曾祖母のこともとても誇りに思っています。

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祖父からは、国に対して奉仕すべしと教育されました。そのかいもあってか6年生の時には海軍に入ることを夢見ていました。子どものころから海が好きだったんです。部屋の壁にはヨットと羅針盤の絵が描かれていましたし、時計は船舵の形のものを置いていました。高校卒業後すぐに海軍大学に入学し、今は最終年です。軍隊の環境に慣れるまでは大変でした。あそこでは全てにおいて規律が求められます。編隊、訓練、勤務の繰りしです。私たちに命令を拒否するという選択肢はありません。「イエス サー!」と言ってすぐに任務をこなすだけです。

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ある時こんなことがありました。勤務中に上官に向けて敬礼をしたのですが、彼は私の声が小さいと思ったようです。罰として3直連続での勤務を命じられました。日の睡眠時間は4時間しか与えられず、立ちっぱなしの監視の任務を4日間こなすことになりました。家に帰っても制服のままベッドに倒れ込む日々です。ほとんどの人間はこれに耐えられずに音を上げます。でも私は自分に言い聞かせました。お前なら大丈夫。絶対できるって。

海上での最初の勤務は、なんて言うかな、普通じゃない感じで、とにかくうれしくて有頂天になっていました。ロシア海軍にはある伝統があって、海上勤務の初日にコップに注がれた海水を飲み干すんです。海水を自分の身体に通過させることで一人前の水兵になれるわけです。私も一気に飲み干しました。初めて嵐に遭った時は船がとんでもなく揺れて、とにかく怖くて。中くらいの嵐だったんですが、小さい船だったし。新米の私にはもういっぱいいっぱいの状態です。猫のように丸まって一方の壁からもう一方の壁に転がり続けていました。

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初めて潜水艦の勤務になった初日にこう言われました。「学校で勉強したことは全て忘れろ」って。潜水艦は近くで見ると巨大なものでした。船体は水面下にさらに6mほど続いています。潜水艦の中は基本的に狭くて1.8mを超える身長の私にはとてもきつい環境でした。移動する時はかがんだ姿勢にならなくてはいけません。マンホールを通って地下道を移動する忍者タートルズみたいな気分です。海上での勤務が始まると丸々一月海の底に居ることもあります。その間太陽を見ることはありません。当然、昼か夜か分からないわけです。艦内では時間帯に合わせてライトの光量を調節していました。昼は明るくして夜は光を絞ります。

もちろん精神的にきついですよ。缶詰のニシンのような気分です。窓もないですし。仲間がこんなことを言ってました。「地球儀を回して適当に海のある場所を指で止めてみろよ。間違いなく俺はそこに行ったことがあるはずさ。そこに何があるかは知らないけどな」。任務が終わって地上に戻り、太陽の光を浴びた時は天国みたいな気分です。任務を一緒にこなした仲間との友情は一生続きます。海上での任務のほとんどは仲間と協力して行うものです。一人でこなせるものはほとんどありません。だから、仮に仲間と何かで言い争いをしていたとしても、必要があれば次の瞬間には何もなかったかのようにお互い助け合います。

軍人が伴侶を見つけることは簡単ではありません。私が高校生の時にある女の子と付き合い始めました。運命の人だと思ったんです。それで大学1年の終わりにプロポーズして結婚しました。彼女と二人、小さな家族で幸せでした。ある時に一か月の海上での訓練があったんです。地上に戻ってきた時に彼女のスマホに他の男からメッセージが来ているのを見てしまいました。私がいない間に他の相手を見つけたようでした。彼女は必死に謝っていましたが、私は彼女の裏切りを許すことができませんでした。
彼女の浮気を心配しながら、どうやって安心して海に出れるでしょうか。私は貞操については確たる考えを持っています。仮に一人の女性と共にあることを決めたら、その通りにします。信頼抜きに関係を構築することはできません。それはあってはならないことです。

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とても傷つきました。でもスポーツや仕事に打ち込んで、なんとか乗り切りました。結婚したことは全く後悔はしていません。その時は、それが最良の選択だったと信じていますし、いい人生経験でした。彼女に最後に会ったのは離婚届を役所に出しに行った時です。今21歳ですが既にバツイチです。パスポートを見るたびに憂鬱になります。気分はもう30代です。

まだこの人だっていう女性は見つかっていません。別にインテリじゃなくてもいいんです。自分も特に本をたくさん読むとかじゃないですし。よく気が付く子だったらいいなって。軍人の妻は夫の支えになれるような人が理想的です。大げさに言えば、銃弾を手渡してくれて「あなた!次はどいつを撃つの?」って言ってくれるような。実際には言い寄ってくる女性は少なくないんです。軍隊の制服ってけっこう女性には人気だから(笑 でもほとんどの女性の考えていることは僕には分かりません。新しいお店のこととか、どのヘアスプレーがいいとか。一度付き合っていた女性にがまんできなくなって、「お前と話すより白樺の木でも抱いてた方がましだ」と言ってしまったこともあります。

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今は女性よりも仕事が大事なんです。目標は海軍の大佐になることです。キャリアのどこかの段階で私は北極圏に送られるでしょうが、それは私にとっては願ってもないことです。なぜなら、そこでの1年の勤務は軍においては2年の勤務として換算されるからです。厳しい気候です。時間の把握なんかはこんな具合です。コバエが多い時間は昼です、さらに増えてくれば夜が更けてきたことを意味します。そして姿が見えなくなれば夜中です。

祖父は私のことをとても誇りに思ってくれています。海軍学校に進み、軍人になった私のことは目に入れても痛くないくらいです。彼は知り合い会うと「俺の孫は海軍に居るんだ!」って自慢しています。祖父の家には私の写真と軍の赤い革カバーの忠誠宣誓書が一緒に飾られています。

こんな言葉があります。「剣を手にする者、早晩その剣により命尽きる」。私はこれをこんな風に理解しています。軍人という職業を選んだ以上、戦地に赴いて命を落とすことは覚悟すべきです。もしその覚悟がないのなら軍人にはなれません。周りから尊敬される将校になりたいと思っています。部下を正しく導いて成長させられるような。ちょうど祖父が私にしてくれたように。

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軍人は自分が何のために戦うのか、はっきりと認識している必要があります。私は愛する祖国のために戦うのです。私はロシアの愛国者です。ここは私の国で、領土、自然、人々、この国の全てを愛しています。私はこの国で育ちました。祖父は戦争で戦い、曾祖母も戦争で国のために命を捧げました。私も自らの命をかける覚悟は出来ています。

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