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物語の作者

人の細胞は常に生まれ変わっているから、厳密に言えば生まれた頃の自分はもうどこにも存在しない。赤ん坊のときに自分の体を作っていたものは、今の自分の体のどこにも残っていない。だから、赤ちゃんの頃の「私」と今の「私」とは、正確にはまったくの別人だ。

同じように、何年かあとの自分も、今とは別人だという計算になる。計算上の話だ。実際には、誰もが「私」を同一人物として扱うだろうし、自分もそれを受け入れて生きるだろう。だけど、ある人がまさにその人であることを規定する「アイデンティティ(自己同一性)」は、本当はすごく脆いものだと知っておくのは、きっと悪いことじゃない。

生物学的には、厳密な本人認証ができないんです。

いま読んでいる本には、生物学者のそんな台詞が出てくる。

私たちは銀行やお役所に行って免許証を見せたりサインしたりして本人であることを証明しているわけですが、実はそんなものは何の証拠にもなりません。指紋や網膜などのパターンも実のところは常に少しずつ変わっているわけで、自己同一性とか自己一貫性とかは、生物学的には何の根拠も基盤もない。比喩ではなく現実に、自己は絶え間なく変わっているわけです。極論すれば私たちは、あらゆる瞬間に死んで、あらゆる瞬間につくりかえられているということになる。

つまり生物学的には、固定された「私」なんてものはありえない。仮に「あなたはどんな人ですか」と質問されて答えるとしても、答えているそばから変化していくので、自己を証明することなんて不可能だ。

だけどそれなら、どうして私たちは昨日も今日も、あるいは生まれた時も今も、同一であるような「自分」を信じて生きていられるんだろう?そんなものはないと証明された後でも、やっぱりあなたがあなたであると思えるのはどうしてだろう。

それはなんとなく、人には「嘘を真実として信じ込む力」が先天的に備わっているからじゃないかと思う。10年前の自分と今の自分はまったく別人だけど、同じ人「だということにする」。そうやって、嘘を本当だと思い込む能力。嘘というより、ただの事実の羅列に、ひとつの連続したストーリーを与える能力。

そう考えると、人生なんて皆、長い小説書いてるようなものだよねえ……。能天気な結論だけれど、もしそうなら優れた作者でいたいよねと、そんなことを思う。

※引用は森達也『私たちはどこから来て、どこへ行くのか 生粋の文系が模索するサイエンスの最先端』筑摩書房、2020、58頁

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