暴力は楽しい──ドッヂボール

そういえば、ドッヂボールの嫌いな子どもだった。初めてそのゲームを「やらされた」のは小学校一年の時だったが、日頃は「お友達と仲良くしましょう」「人には親切にしよう」と言っている先生が、いきなり「お友達にボールをぶつけましょう!顔に当たったらセーフ!」なんて言い出すのだから、ポカンとした。何がセーフなんだろう、「顔に当てたら謝りましょう」の間違いじゃないのか。

間違いではないのである。ドッヂボールはそういうゲームだ。ボールをぶつけて相手に痛い思いをさせる、それで一点。顔に当たったらノーカウント、でも私はここで泣き出して、保健室に向かった記憶がある。男の子の豪速球を喰らうのはとにかく痛い。小学生であっても、野球部の子たちなんかは肩が強く、彼らの投げたボールが顔に当たれば、そんなの殴られたのと同じだ。

個人的には、ドッヂボールが日本の教育現場から消えることを望んでいる。大人が好きでやるのはいいが、子どもに強制するには暴力性の強い遊びだ。それを無理矢理やらせれば「お友達への暴力はいけません」なんて言葉は空虚な響きしか持たなくなる。かつて自分がそう感じたように。でも、そううまくはいかないだろう。たぶん明日も、どこかの学校でボールが渡されて、生徒は嬉々としてプレーするのだ。

どうしてドッヂボールが教育現場から消えないと考えるのか?
答えは簡単だ。暴力は楽しい。体罰が消えてなくならないのと、本質的には同じことだ。

人間には残酷な一面がある。他人を痛めつけて快感を得るという側面だ。生き延びる方法として、時には他人を弱らせることが有効なときもあったのだろう。それは長い人類の歴史の中で培われた本能だから、それ自体を否定する気はない。暴力には、強さを見せつける快感も伴う。他人を自分の下に置き、周囲にパワーを認めさせる。暴力にはそういう喜びがある。

ドッヂボールの大好きな生徒は、本当にあのゲームが好きだ。彼らは悪人ではないが、暴力に惹かれている人たちだとは思う。暴力のもたらす快感は、人をトリコにする。彼らが何かというとドッヂボールをやりたがったみたいに。(自分のクラスでは人気のあるゲームだった。恐らく多くの場所でそうだろうと踏んでいる)

やりたい生徒と、やらせたい教師がいる以上は、日本の小中学校からドッヂボールが消える日は来ないだろう。体罰と違うのは、被害者も加害者も同じ生徒であるということだ。そして、被害を訴える生徒がいない(大きな怪我はなく、あっても保健室で「痛かったね」と言われて終わる)ために、明確に暴力であると認識されないからだ。

だけど自分は主張したい。ドッヂボールをやらせることも、誰かにボールをぶつけることも、それは暴力のひとつだと。やるなら好きな人だけがやれぱいいのであり、他人を暴力に参加させ巻き添えを食わせることは、してはならないことなのだと。やるならば、それが暴力だと認識して行うべきだと。

力を振るうことは楽しい。でもだからこそ、その使用には慎重になる必要がある。それを教えるのが教育であるべきだ。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。