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壊して見せろよ、そのBad Habit!

この記事は三人の登場人物の対話形式で進めていきます。
りお:若手人事担当
持続的に繁栄できる強い組織にするべく、あらゆることを探求し、人事活動に活かしていきたい若手人事。少し捻くれている。
としぞう:精神科医
個人の行動変容や組織全体の行動に詳しい精神科医
わたるん:仙人
複雑な事象を整理し正確に言語化してくれる。たまにしか出てこない。

りお>
SEKAI NO OWARIの『Habit』まだまだ人気ですよね。
すごく的を得ていて、私もずっと聴いてます。
なんで的を得ていると感じるのか、なぜこれほど共感するのかを紐解いていくことで理解したいと考えています。よろしくお願いします!

君たちったらなんでもかんでも分類区別ジャンル分けしたがる
人はなぜか分類したがる習性があるとかないとか

SEKAI NO OWARI 『Habit』

りお>
この、分類区別の習性は、生きるために人間が培ってきた脳(本能)が関係している気がします。なぜそんな習性を持つようになったんですかね。

としぞう>
原始人として少ない情報で判断しなくてはいけない場合が多いからだと思います。一度蛇を見て、危険な目にあった人が、もう一度蛇にあった時「この蛇は前の蛇とおなじ蛇だろうか?」と考えるより、「蛇」という分類を作ってしまい、まとめて判断する方が生存確率は高まります。

りお>
なるほど。

仙人>
"分類区別"と人間の内面の何かを攻撃してみるけど、一つの分類の中に豊かな生態的分類の色彩を失ってしまったことは何とも思わないのかい?みたいな感じですよね。
分類の進化心理学とは別に、イヌイットには雪の性質分類表現が沢山あったそうな。
別に分類区別すること自体は複雑性の縮減なので、悪くないですよね。人間の何らかの活動をスムーズにするための分類ですから。
でも、自然との協働が深ければ雪の分類が深く多様になっていくだけの話で、分類区別が悪とかいうと本質を踏み外すということですね。

りお>
それはそうですね。ここでは、人の内面の多様性を排除して、単純化しすぎた分類であることに対しての嫌悪感を歌っているような気がしますね。
それこそ、雪の分類が多様であるように、本来的には人の性質に対しても多様な表現が用いられるはずであるにも関わらず、勝ち組、負け組という二分論に持ち込む、その浅はかさに対して嘆いているように思います。
一定の共同体範囲(バウンダリ)で人の性質を表す多くの言語を獲得していく必要がありそうですよね。いや、むしろ言語化する必要性すらないのか。

そう考えると我々は常に、分類の単純化と複雑性の整理という対極のグラデーションの中で生きているのだなと思います。
例えばいじめやハラスメントのような問題も、単純化された分類が固定観念化した故の結果であるようにも捉えられる気がします。
この分類の単純化は、やはりいじめやハラスメントなどのコミュニティ内の問題発生要因として大きな影響を与えているのでしょうか。

としぞう>
二分論になってしまうことでいじめやハラスメントを起こしてしまうことは結構ありますよね。敵か味方か?白か黒か?分けてしまうとどうしても、こうすべきとか、これは間違っているとか「正論」の押し付けを産んでしまいます。その結果、自分達の味方に従わない人を変えようとしてしまって、それが行き過ぎることでいじめとかハラスメントのきっかけになってしまうことはありますよね。

りお>
分類が生存のために必要であったという文脈に従うならば、人が分類に囚われることから脱却することはかなり難しいのではないかと思えてきます。どうすれば単純化された分類にとらわれず自分の価値に気づけるでしょうか

としぞう>
まあ、分類が悪いかどうか自体も二分論なんですよね。その意味ではスッキリとした解決を目指そうとすること自体がそもそもの二分論が始まる原因になります。あ、また白か黒か決めたくなってるなーうーん、この習性やっぱりあるんだな、まあ、音楽でも聴こうか。なんも解決しとらんけど。くらいのはっきりしないスタンスにどれだけ気持ち悪さを受け入れて留まることができるか?が大事なんですよね。

りお>
なるほど。実際にいじめの場面などを想像してみると、分類する側の行動変容ってある種痛みがないので起きにくいだろうなとも思います。
分類する側の行動変容を促すことを考えても、あんまりうまくいかなさそう。
ここで、分類されて苦しんでいる側の視点に立つと、
アイデンティティがまだ確立されてない時期に、そういう分類されるときつくなる気持ちはとても分かります。ただ、この分類区別しちゃう習性があるんだな、それは人間としてしょうがないんだなと考えることができれば、自分に向けられている分類がなんか可愛く見えてくるみたいな感じで、分類によって苦しむことも少なくなるのではないかとも思いました。
この私に向けられている分類区別は、全然私を表現してないよね〜、じゃあ、逆に私を表現するのに適切な言葉は何だろう?って考えたり、別に私を言語化する必要なんてないやん、私は私よ。みたいな。

仙人
ところで、人間の内面の多様性が因で、その表現が果という構図って正しいのでしょうか?
昔は"これだけ現在顕になった多様性が全て抑圧されていただけだ!"は、私は本当ではないと思いますよ。そもそも昔は個人などありませんでしたが、それは抑圧とは異なります。極端に言えば、個別主観意識すら確実性は曖昧です。
元々人間の内面、ではなく、知覚-予期的内部感覚-行動-予測誤差(認知)-知覚というサイクルの組合せは多様です。遺伝子的には物凄く同質性が強いのですが、結果として出来る上記のシステム配線が複雑なので、多様性を生み出せるのです。この次元の多様性はしかし、何に誤差を生じるのか?という意味において、身体環境的な同質性も人間は進化上強いので、原始人の頃は抑圧などという社会的構成以前に、ほとんど出番がなかったと言うこともあります。
他方で、ある集団が内集団バイアスに基づき分類をすることで、人間の攻撃性は顕著に発揮されてきました。特に障害という分野においては、右利きの共通性による内集団バイアスに左利きが凡ゆる分野で鈍臭いと分類されて蔑まれるという構図を見ることが出来ます。特に個人が成立してからは、鈍臭さは全て個人にfixした個性として捉えられてしまいます。いつのまにか補完されて目立たないものに決してなりません。この意味では内面の多様性は何かを置き忘れており、全てが個人という範囲で白日になり(抑圧されない?)(因)、責任を取ることになる(果)。
これは本当に必然の構図なのでしょうか?抑圧が取り払われたのではなく、孤立して補完がなくなって剥き出しになったとも取れます。
そして、内集団は身体を介することなく、(内面の)多様な分類の乱立即して、益々人間を分断するという逆転現象も起きて来ます。
内面の多様性ということよりも、現実に目立つのはもっと原始的な分類と格差であるのに、何故そのようにナイーブに分断されているのか?も問題のように思えます。
生活が成り立ちにくいのを、自己実現の物語にすり替えられて悩むというのは、自明なことではないでしょう。分類への反動は実は骨の髄まで抑圧された現象にも見えてきてしまうので、論じるのが大変だということなのです。私がイヌイットの例を出したのは自然に対しての分類などではなく、人間の分類から何が失われているのか?という指摘であり、それは分類されるのはゴメンだ、多様性がというナイーブさを抱えていると自分の首を絞めるのではないか?という指摘です。
この辺りの疑問に対して、どう答えるか?は一つの弱点なのです。二分法だよ、知らんけど、の抽象度だと何も分かりません。
勿論、そのような態度で対話する中で、上記に私が述べたようなものも含め情報粒度が高まることを我々は提案します。その一方で、人類そのものがアンコンシャスに受け入れている分類とその反動の上での対話は分断しか産みません。その中で知らんけどを大抵の人は貫けません。分類や知(情報、体系)の在り方の時代性には本質的に歯が立ちません。我々が引き起こそうとしているのは、そこを揺るがすためのseedです。なので、この種の話にはあまり立ち入らないという事にはなります。我々は分類に慣れ親しみすぎて、単なる反動に気づかないのです。そして、反動の中から見える多様性は多様性ではありません。環境への過敏とキャパオーバーを人間嫌いと捉えたら出口がないように、誤解に満ちた内面解釈を多様性だと呼んでしまうのは危険なことです。
そうなると、より分かりやすい分類の中で自分の多様性を考えなくてはならなくなります。矛盾しているようですが、そういうものですね。

りお>
そもそも生命というものをどんな輪郭で捉えているかの話であると思いました。

仙人>
生命の輪郭は動的ですからね、知らんけど。

としぞう>
ある意味、哲学的、思想的、ポジションをとらずに、単に観察データであるエビデンスに忠実に、シードとなる習慣のみを知らんけどを貫きながら、組織の役に立つ方法として提示しつづけられるのは我々の強みですよね。

仙人>
そうなんですよね。
逆にそのポジションで説明しなければいけない時は、感覚的に習慣からの(情報的)距離が現在の文脈である時です。なので、あまり語りたくない。死後の世界とかに釈迦が沈黙するのと一緒。

りお>
この辺の文脈が伝わる確率上げるためにどうしたらいいか。。。

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