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読めない本を読む

なぜ、読めない本に立ち向かうのか?

その理由を掘り下げます。


メンタリスト 彩 -sai-(@psychicsorcerer)です。

今回は、私が読めない本についての話をします(???)

なぜ読めない本のことをあえて語るか……。

その意味を、以下の文から感じていただきたいのです。


例えば、私は梶井基次郎の文章が読めない。

梶井は、短編『檸檬』でよく知られる小説家だ。

優れた文章でも知られる梶井なのだが……

何というか、その文章に、私は負けてしまう感じなのだ。

文章が重ねる描写に食らいつけない感じで、途中で振り落とされてしまうというか……

梶井の作品が収められた文庫本を持っているのだが、流し読みとなったものも多く、相性がよいとは言い難い。

しかし、これは決して、梶井の作品に私は関心がないというわけではない。

むしろ、梶井には関心があるのだ。

例えば、『闇の絵巻』や『蒼穹』などの短編は、興味深いテーマを扱っており、苦労しながら何度も読み返している。

『Kの昇天』も幻想的で私好みの話だ。

ただやはり、文を噛み砕くのには苦労してしまう……。


梶井基次郎に関心を持つきっかけは、埴谷雄高である。

埴谷雄高は私にとって大事な作家なのだが、その埴谷は梶井のことを高く評価している。

(上で挙げた『闇の絵巻』と『蒼穹』は、埴谷が闇をテーマとしているところからのつながりで、再読するに至り、ちゃんと読むことができた。)

埴谷が指摘する梶井のすごさを理解したいとずっと思っているが、なかなか到達できない。


もう一つ例を挙げてみる。

ローベルト・ムージルの『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』という本が岩波文庫で出ている。

これまた読めない。

この本は中編が2作入っているのだが……

初読時は、読み通して、ともに何が書いてあったかがわからなかった……。

まあ、これらの作品は非常に読みづらいと言われているので、私の読解力の問題だけではなさそうだ。

ありがたいことで、現在はネットが発達しているので、作品のあらすじを知ることはできた。

しかし、これがなかったら、私はこの本を読むことを完全に断念したかもしれない。

ムージルは、哲学にも縁のあった小説家なので、そこで述べられていることが簡単に言い表しづらいものなのだろう。

特に『愛の完成』の方は、自分にとって興味深いことを扱っているので、遠くない未来に、ある程度の理解を持ちたいと思っている。


以上、2つの例で述べてきたように、文章との相性、あるいは文章の難しさから、読書が難しくなることがある。

それでも、困難さがあっても、その本への関心は減らないことがあるのだ。

いや、もしかしたら、読むことの困難さが、読書へと立ち向かわせる魅力となり、私に関心を抱かせているのかもしれない。

これは読書に限らない。

困難だからこそ、そこから得られうる宝のようなものを求めてしまうところはある。

きっと、この文を読むあなたにも、そんな困難さの奥にある宝を求めることがあるだろう。

今回私が述べたかったのは、

読書という分野に限らず、自分特有の困難さに向かい、宝を得ようとする人にエールを送りたい

ということだったのだろう。


あなたが、そしてこれからの私が、たとえ困難な道があっても、その道の奥の宝に到達する気持ちを失わないことを願います。


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