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目に映る大事な人の笑顔を後回しにしてしまう

あなたが
大事なことを後回しにする理由を
全て明らかにします。


メンタリスト 彩 -sai-(@psychicsorcerer)です。

毎日を過ごす中で、
親しい人たちの笑顔が
私にとっては大事だった気がする。

それなのに、

「世の中の動向はどうなっている?
 世の中の動きを見ておくことが、
 大事なことなんだ」

と、直接は目に映らない
遠くの出来事を気にかけている内に、

目に映る大事な人の笑顔を
後回しにしてしまっている気がする。


哲学者の視点

この
「目に映る範囲の事の後回し」
について、
20世紀の哲学者ハイデガーは
次のように述べていました。

(難しい文ですが、
 引用後にわかりやすく
 言い換えていきますね。)

※引用文中の「現存在」とは
人間をあらわすものとして
お読みください。

現存在のなかには、近さへの本質的な傾向がひそんでいる。われわれが今日多少ともいやおうなしに参加させられているあらゆる種類のスピード・アップは遠隔性の克服をめがけて進行している。たとえば「ラジオ」を例にとっても、現存在は今日それによって、日常的環境世界を拡大しつつ、そのことの現存在的な意味においてはまだ見極めがつかないような「世界」の開離(遠隔性の取り消し)を遂行しているのである。

(『存在と時間』「第23節 世界=内=存在の空間性」)

私たちには、
目に映る身近な大事な人やものに
接し続けることよりも、
目に映らない遠くのものを
近くにしようとする傾向があるようです。

私たちは、
自分にとって縁遠い世界に目を向け、
その縁遠さ(=遠隔性)を無くし
身近なものにしようとします。

そして、この傾向から私たちは、
引用中にあるラジオ、
また、それだけじゃなく

テレビ、電話、インターネット、スマホ
そして、
電車、車、飛行機

といった遠隔性を取り消す手段
作るに至りました。

(引用中の「開離」という言葉は
 もともとは「距離を取ること」
 をあらわしますが、
 縁遠いこととの距離を取る
 ということは、実は、
 自分に縁が無いものを
 「距離がわかる」という点で
 身近にすることです。


上に挙げた諸々の手段は、

「こちらに近づける」
あるいは
「こちらが近づく」

という仕方で、
本来だったら自分の身近に無い
遠くにあるもの(縁遠いもの)
を身近にしていきます。

これらの手段によって、
遠くの地域の出来事や
他の国の出来事は、
今や、
自分の身の回りの世界
(=日常的環境世界)
と同等に感じられるように
なりました。


私たちは、もう十分に、
目に映らない遠くのものを
目に映る近いものに
変えてきたように思えます。

……それでも、

私たちの傾向は、

「さらに縁遠いものを身近に!
 縁遠いものはまだないか!」

という風に、
遠くを見続けようとしています。

ハイデガーによると、
遠くを見続けようとするのは
「好奇心」という
人間の持つ傾向なのです。

私たちは、好奇心によって、
目に映るものより
遠くのまだ目に映らないものを
大事にしてしまいがちな
存在なのです。


で、どうしよう?

もし、
遠くを見続けて身近にし続ける傾向、
好奇心という傾向、
それが人間に組み込まれているなら、

目に映る大事な人の笑顔を
後回しにするのは、
人としての業のような
ものともいえる。

業なら仕方がない?

目に映る大事な人は、
永遠に二の次、三の次に
後回しにされるもの?

いや、

少なくとも、
この業のようなものの
仕組みが幾分がわかった今なら……

自分が遠くに目が向くことに
自覚する瞬間を増やすことは
できるかもしれない。

「日常のこれこれは、
 遠くを身近にしようとする
 人間の仕組みに由来する」

と気付く機会を
増やすのもいいだろう。

そうやって
自覚し気付いた瞬間に、
目の前の大事な人、
それだけでなく
大事なものや事柄の
大切さを意識してみれば、

一つ一つの気付きは小さくても、
徐々に日々が
変わっていくかもしれない。


追記:
この記事は
4/11に下書きを始めたもので、
私がnoteを書き始めた時に
いつか書ければと
温め続けてきたものでした。 

それから3ヶ月強、
やっぱり色んな「遠く」に
目が向きながらの日々で、
私の好奇心は色んなところに
作動し続けてたけど。

後回しにし続けても、
ここまで書き上げられたから。

この記事が仮に人だったら
笑顔を向けてくれるかな。


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