「毒親」という名の反面教師
「毒親」という言葉は皆さん耳にされたことはあるだろうか。書店に足を運ぶと、この「毒親」と言う言葉が書かれた書籍が並んでいることもある。「毒親」とは、アメリカの専門家が提唱した概念だ。それは「毒のように子供に悪影響を及ぼす親」のことを指すようだ。
「毒親」にも色々な対応があり、「子供を否定する」、「暴言・暴力」、「過干渉」、「過保護」などがある。
書籍や記事などでもよく見るのだが、私の母親に当てはまることが多く見受けられられたのに気づいたはごく最近のことだ。考えてみると私自身の性格上、子供時代の(今でもそうだが)母親からの言動には理解できないことが多い。ただ、そんな中そういう扱いを受けたことで反面教師として気付かされることも多かった。
「毒親」であろう母親から受けた言動で影響を受けた点と、逆に学んだことを一つ挙げてみよう。
〈〇〇ちゃんはできるのに…〉
私には一人の姉がいる。そして、一つ下に従兄弟がいる。
彼女らはいわゆる「良い子」で、親目線でいえば「手のかからない子供」だろう。成績は優秀な方で、文武両道で、親の言う事を素直に聞くタイプだ。どちらかといえば、私は反対のタイプで、勉強嫌いで一つのことを続けるのが嫌でいろんなことに手をつけたい性格だった。親からすると、「手のかかる聞き分けのない子供」になるだろう。そんな子供時代の私に対する扱いは辛いものがあった。その「良い子」であった彼女らとの比較だ。それを私のみにぶつけるだけならまだよかった。母親は親戚や同級生の親の前でも私と彼女らを比較する言動がかなり多かった。かなり嫌な気分だったし、屈辱を与えられていたのは今でも鮮明に覚えている。そして何に対してもやる気を失っていた。
〈砂時計のように落ちていく「自信」〉
彼女らと比較されることで、私自身「自信の喪失」につながってしまった。「何をしても認められないだろう」と言う思考過程に陥り、「努力」や「継続」といった言葉は大嫌いなワードになっていたのは間違いない。「結果」を評価され続けられる限り、自分が認められることはないと感じたからだ。だからだろうか、当時は「自分にはセンスがある」と言う根拠の無い自信を無理やり自分自身に思い込ませ「努力・継続」から逃げる傾向があった。当然、「センス」なんてしれているものでありそれだけで社会の中で生きることなんてできない。それに気づいたのも、おそらく社会人になってからだろう。世の中には、センスの塊みたいな人間はゴロゴロいる。そういった「できる人間たち」との比較を毒親から受けるのことは、社会人になってからも続いていたのは言うまでもない。
そんな人間たちが成長していく姿を目の当たりにすると、「根拠の無い自信」さえも失われていく。
〈独親から学んだ教訓〉
そういった中で、気づいたこと。
「他者との比較で生まれるのは一つの優越感と一つの劣等感だけだ」
他者と比較して優れている方は「優越感」を得ることでさらなる成長のきっかけにつながるかもしない。しかしその一方で、敗北した人間には「劣等感」が生まれる。一度だけの「劣等感」ならば逆に次の成長への刺激になるかもしれない。しかし、比較され負け続けた人間はそうもいかないのは明確だ。「もっと努力して〇〇より頑張りなさい」というが、人間そんなに強くない。少なくとも私はそうだ。そして大人になってやっと気づいた。
比較しないためには「自分の軸(信念)」を持つ
自分で決めた軸や信念は何にも比較できない。他者の否定や干渉があろうと自分が生きる目的として掲げたことは比較されようがないし劣等感を感じる必要もない。だから、自分の人生を振り返り「自分自身が大事にしていた(している)こと」を振り返るワークをひたすら行なったのだ。そうしてできた自分の軸を持つことで、僅かながら「他者との比較」から解放されることができたのだ。
そしてもう一つ。
自分の子供を他者と比較しない
言うまでもない。私自身が経験したことを引き継がせないと言うことだ。
子供が言うことを聞かないと使いがちになる「〇〇ちゃんはできのに…」と言う言葉。この言葉(比較の言葉)が子供にとっての暴力になると言うことは体験済みだ。こういった子供の自信を削り続けるのは育児ではない。最終的に一人の人間として「自信」を持って生きることができるように支援するのが育児だと思う。
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