見出し画像

「死」と「人生」についての独り言 -シェリーケーガン『DEATH』を読んで-

どうも皆さん。前回、相方が寺山修司氏の『町』について書いてくれました。
本来、1週間ごとくらいで投稿していこうと言っていたのですが、あれから2ヶ月くらい経ってしまいました、初っ端から大やらかしですね。

本も映画も、色々と触れてはいるんですが、ぼんやりとあれこれ考えつつ、なかなか文字に起こせない日々でした。なにについて書こうか迷ったんですが、アメリカのイェール大学教授シェリーケーガン先生の「『死』とは何か」をテーマに書いていこうと思います!

本の内容を紹介するというよりも、これを読んでの自分の考えなりを書いていきたいと思いますが、まずは簡単に本自体の紹介をしておきます。

画像1

結構話題な本なので知っている方も多いかもしれませんが、これはイェール大学の哲学教授であるシェリーケーガン先生が大学で開講している「死」についての授業を書籍化したもので、「死」の分析を踏まえ、我々はどう生きるべきかについて投げかける内容となっています。
本も映画も、ただ受容するのではなくて、それを咀嚼して自分なりに飲み込む過程が一番楽しかったりするわけですが、この本はそのプロセスにだいぶ時間がかかりました。本自体も約750頁(僕は完全版を読みましたが、もっと短い縮約版もあるようです。)と長めで、ほんとに鈍器くらいごついんですが、それ以上に、「死」について、「生」について、哲学的に思考実験を繰り返して検証していく内容なので、それを自分なりに落とし込んで考えるのに時間を要しました。

ではでは本題に入っていきましょう!
本書は、序盤あたりで二元論と物理主義を対比させながら、「人間」そのものについて、そして「魂」の存在について形而上学的考察が繰り広げられています。(特段重要ではありませんが、シェリー先生は完全なる物理主義者で、基本的には二元論の立場を反証する流れで検討が進みます。)
中盤では主に「死」をどう定義し、どう捉えるべきかについて考察しています。
そして終盤で「死」の定義を踏まえ、「死」への向き合い方について検討しています。本表紙にある印象的なメッセージ、「人は、必ず死ぬ。だからこそ、どう生きるべきか」に表されるように、「生」をどう享受すべきか、「自殺」というテーマも踏まえながら論じています。

もちろんこんな壮大な本全体の詳細を書くことは到底無理なので、中盤と終盤での内容について、それぞれ簡単に見ていきます。
実際、縮約版の方では前述の序盤に当たる部分がカットされているので、本書の核となる内容は中盤・終盤と言ってもよいかと思います。

① 「死」の捉え方

「死」。
みなさんはどんな印象を持っていますか。この言葉をどう捉えるか、考えたことがあるでしょうか。これまで二次元の世界でも実際の人々も幾度となく目指してきた「不老不死」が未だ実現していない中で、「死」は僕たちに必ず訪れます。まずはこの「死」そのものについて考察していくことにします。

「死」に対する印象を投げかけましたが、おそらく一般的に見て「死」に良い印象を持っている人は少ないと思います。後で取り上げる「自殺」に対してネガティブなイメージを持ちがちなことも、そして前述したように不老不死が渇望されることも、そのようなアニメや漫画がすんなりと受け入れられることも、人々の多くが「死」に対してマイナスなイメージを持っているからかもしれません。

果たして、「死」は「悪いもの」なのでしょうか。まずここについて少し見ていきましょう。
この命題に対しシェリー先生が紹介するのが、「剥奪説」(Deprivation Theory)です。これは、アメリカの哲学者トマス・ネーゲルなどが唱えた考え方で、「死は良い体験の可能性を奪う点で害悪だ」というものです。
死は、生きてさえいれば享受できたであろう様々な喜び・楽しみ・感動をもはや味わえなくする、所謂「良い人生」の可能性を奪ってしまうから悪いと。

これを考えを異にするのが、快楽主義などで知られる古代ギリシアのエピクロスの主張です。エピクロスは、「死はなにものでもない」と言います。
なにものでもないとはどういうことでしょう。

「死は、もろもろの災厄の中でも最も恐ろしいものとされているが、実は、我々にとっては何ものでもないのである。何故なら、我々が現に生きて存在しているときには、死は我々のところにはないし、死が実際に我々のところにやってきたときには、我々はもはや存在しないからである。したがって、死は、生きている人びとにとっても、また死んでしまった人々にとっても、何ものでもないのである。生きている人びとのところには、死は存在しないのだし、死んでしまった人々は、彼ら自身がもはや存在しないのだから。」(ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシャ哲学者列伝」)

これを読んですんなり「ああそうか」となったでしょうか。笑
つまり、生きている限り、「死」は僕たちのもとにはやってきません。いざそれがやってきた時、僕たちはどうかと言うと、死んでいます。当たり前すぎることを言っていますが、だからこそ「死」はなにものでもないと言うのです。

この考えを、シェリー先生は3段論法で整理しています。

(A)ある人にとって何かが悪いことでありうるのは、その人が存在しているときだけだ。
(B)ある人が死んでしまえば、その人は存在しない。したがって、
(C)死は本人にとって悪いことはありえない。(本書p.471)

ここで、少なくとも物理主義的立場から話を進めている本書において、(B)は真の命題です。よって、(C)の帰結を導くためには、(A)の命題が真であればよいことになります。
(A)の命題から、「ある人が存在していないときには、その人にとって何かが悪いことはありえない」という対偶を取ることができます。では、ある人が存在していないのにも関わらず、その人にとって悪いということはありえるのでしょうか。

シェリー先生は、剥奪説こそがこれに対する答えだと主張します。

「何かが欠けているためには、人は存在する必要はない。それどころか、本人が存在していないというまさにその事実で、その人が剥奪されている理由、何かを欠いている理由が説明できるかもしれない。」(本書p.472)

「剥奪」という相対的に悪いものについて考えると、何かを剥奪されるのには、人は存在する必要さえないと言えます。存在しなければ、何かを剥奪されることが確実だからです。
つまり、シェリー先生が「存在要件」と呼ぶ(A)の命題が偽であることを証明することで、エピクロスの理論を反証しています。
実はこれについてはさらに様々な仮説と検証を繰り返すのですが、ここではここまでにしておきます。

さて、剥奪説に立って、「死」は人生における良いことを剥奪するから悪いという考えを見てきました。ここで次なる命題が登場します。

最も望ましいのは永遠に生きることなのか

上でも少し触れた、「不死」こそが、渇望されるべき対象なのでしょうか。
2段階的にみていきます。

1 ) 剥奪説を受け入れる=不死が良いことだと考えねばならないのか
これについて、シェリー先生は全く違うと述べています。
繰り返しになりますが、剥奪説とはあくまで、「死」が人生における「良いこと」を奪うから悪いという考えです。
よって、もはや人生に「良いことが」残っていないとしたらどうでしょう。残りが悪いものばかりであったなら、「死」は害悪なものなどとは言えないことになります。
よって、剥奪説に従った場合でさえ、不死が必ずしも良いことだという帰結は導けないことになります。

2 ) では、果たして「不死」は良いことなのか
少し刺激的な言葉ですが、シェリー先生は「『不死』と『生き地獄』は紙一重」かもしれないと述べています。(本書p.507)

皆さんは、不死が最善であるような、そんな状態を想像できるでしょうか。
「天国にいること!」と思うかもしれません。永遠に極楽浄土で暮らす生活。なんだか幸せそうですよね。
では、その生活とはどのようなものでしょうか。僕には、天国での至福が、厳密には、具体的にはどのようなものか想像もつきません。

天国では、みんな天使になって、永遠に賛美歌を歌って過ごすのかもしれません。
これについて、1967年のイギリス映画『悪いことしましョ!』でユーモアなタッチで描かれています。

ある人間が悪魔と出会い、「それで、どうしてお前は神に反逆したんだ?」と問う。すると悪魔はこう答える。
「よし、教えてやろう。俺がここに座っているから、周りを踊ってまわりながら、『おお、神を称えよ、主はなんと素晴らしい!主はなんと偉大なことか!主はなんと輝かしいことか!』と唱えるんだ」
人間はしばらくそうしてから、「もう、うんざりだ。交代してくれないか?」と不平を言う。すると、すかさず悪魔が答える。
「俺もまさにそう言ったのさ」(本書p.508,509)

これはかなりいき過ぎた例かもしれませんが、どんな種類の人生であれば不死を望めるでしょう。100年でも1000年でも10000年でもなく、それどころか1億年でもなく、文字通り永遠を過ごしても良いと思える人生を思い描けるでしょうか。

賛美歌を歌うように1つのことを繰り返すような場合ではなく、様々なことに挑戦すればかなりの時間を充実したものとして過ごすことができるでしょう。
しかし、未来永劫と考えると、少なくとも今の僕には、不死を求めたくなるような人生を思い描くことはできません。
シェリー先生は、あらゆる人生は最終的に悪くなり、耐えがたい苦痛を伴うものになる、もっと言うと

「不死は素晴らしいことには程遠く、ぞっとするような代物である」

とまで述べています。まさに生き地獄と紙一重だと。

だからといって、最善の人生とは、たった50年や100年で実現されるものでもないかもしれません。死は実際には早く訪れすぎるのかもしれません。

シェリー先生は、不死が悪い=我々が実際に死ぬような年齢で死ぬのが良いこと
というのでなく、結局は自分が望むだけ生きられることではないかと投げかけています。

ここまで、「死」は悪いのか、「死」が悪いのであるならば「不死」は良いことなのかなどについて見てきました。

以下では、「死」というものの捉え方を踏まえ、「人生」というものに主眼をうつしていきます。
「死」が悪いか、「不死」が良いかどうかは各人次第ですが、万人に共通していること、それは、少なくとも現時点での科学技術の発展段階において「我々はいつか死ぬ」ということです。

だからこそ、「どう生きるべきか」。

②人生の価値と「どう生きるべきか」

剥奪説では、人生の良いことを奪うから「死」は悪であるし、残っているものが悪いことばかりであるなら、「死」は悪いことではないという考察を上で紹介しました。
ここで前提となっていること、それは人生の価値、質を全体的に判断できることです。生き続ける価値があるのか、生き続けない方がましなのか。判断基準があるのでしょうか。

これについて、シェリー先生はいくつかの考え方を示しています。

i. ニュートラルな器説(人生におけるその中身を吟味し、その良しあしを決める)
生きていることそのものに価値はなく、人生の中で起こっていることが重要。
人生における痛みや快感、実績や失敗などなどを合計し、プラスかマイナスかを求めることで人生の価値を導き出すものです。

このニュートラルな器説の立場を前提とした場合に、考えられるいくつかの帰結は次の3つが代表例でしょう。

1 ) 楽観主義
あらゆる人にとって、あらゆる状況において、総計が常にプラスになると考えるものです。

「人生は常に生きる価値がある。存在しないことに、いつでも優る」(本書p.542)

これが楽観主義です。

2 ) 悲観主義
楽観主義の反対で、あらゆる人にとって、あらゆる状況において、総計が常にマイナスになると考えるものです。
とても悲しく聞こえますが、悲観主義者は

「私たちはみな、死んだほうがましだ。それどころか、誰にとっても、そもそもまったく生まれなかったほうが良かっただろう」(本書p.543)

と主張します。

3 ) 穏健主義
上の2つの考えの間に位置するのがこの穏健主義です。

「一概には言えない。差し引きがプラスの人もいれば、マイナスの人もいる。」(本書p.543)

基本的には、生き甲斐のある人生だと信じたいですが、例えば重大な病気の末期で、大変な痛みが伴い、ずっと寝たきりで家族などにも見放されている人を想像してみると、その人を待ち受けている未来が良くないことは十分考えられます。
このようなケースにおいては総計はマイナスにもなり得る、ケース次第だという主張です。

一方で、人生の中身の価値だけでなく、人生そのものの価値を考慮すべきという立場も存在します。

ⅱ. 価値ある器説(生きているという事実だけで価値がある)
人生の中身のあれこれを足し引きしても、それは小計に過ぎない。
その上で、生きていることだけで得られる価値を特別のプラスポイントとして足した値がプラスかマイナスかが人生の価値であるという考えです。

色々と書きましたが、もちろん人生の価値の判断基準はこれだけではないでしょうし、それぞれの考え方も固定的なものではなく、おおいにグラデーションがあるものです。
さらに付け加えると、「良いこと」「悪いこと」を足しあわせた合計、そして人生そのものの価値といった要素の他に、少し見方を変えると、
「長さ」と「太さ」
つまり、人生の長さと、そのという捉え方もできるでしょう。よく、太く短くとか、長く細くとか言われることもあるかもしれません。

個人的には、上のような二項対立的ではなく、長さと太さをx軸とy軸でおいた四角形の面積のようなものなのかなと思っています。
太いとか長いとか、細いとか短いとかの線ではなく、面で、捉えるみたいな。

ただ、この場合でももう少し突っ込むべきことがあります。
あくまで仮の話ですが、x軸を人生の長さ、y軸を質とし、質が+1=かろうじて生きる価値がある(死ぬよりはまし)という状態だとしましょう。

(a) 30,000年の人生だが、質はずっと+1
(b) 100年の人生だが、質はずっと+150

この2つ、面積ではどうなるか。(a)は30,000、(b)は15,000で、2倍の差があります。
しかし、僕は後者の人生を選ぶと答えたくなります。
こう考えると、単純に長さと質の面積では妥当な結論が導けないのかもしれません。
面積=人生の価値とすれば、その幸福の量よりも質の部分に比重をかけないと成り立たなくなるのかも。

なんだか書きながら出口がわからなくなってきましたが、結局、大事なのは自分にとって「死」とは何か、自分が「死」をどう捉えるかを考えてみること、客観的に把握することかもしれません。
そしてその際に、そこには様々な捉え方が存在し、他者と自分の考えが異なり得ると認識することも大切でしょう。

死生観に正解はないし、どのような人生を送りたいかも人それぞれです。
では、一般的に「良くないこと」とされる、「自殺」について我々はどのように考えるべきでしょうか。最後にそれを見て終わりにします。

自殺は「悪」か

ここまででなんとなく感じた方もいるかもしれませんが、本書は基本的には世間で一般的に思われている概念に「なぜ?」を投げかけ、哲学的に反証を試みるものです。

この「自殺」についても同様で、なぜいけないのかを問い直すところから出発します。
そして、結論から言うと、シェリー先生の考えは、

自殺が合理的にも道徳的にも正当化する場面は存在する。
それはこれからの人生があまりに悲惨で絶望に満ちており、人生を終わらせた方がよい、と判断される場合は自殺は正当化される。

というものです。念のため言っておきますが、自殺を肯定しているわけではなく、あくまでも正当化できる可能性があることを主張しているだけです。

本書でも検討されている2つのことを踏まえつつ、僕の考えを少し書こうと思います。

1 ) 人生のどの点において価値を計算するかによって結論が異なる
言い忘れましたが、これは僕が穏健主義的な考え方に立っているというところから生まれるものです。
楽観主義や悲観主義では、どの時点で価値を測ろうとも人生がプラスかマイナスのどちらかに振り切れると決まっているため、このようなことは起こりません。

しかし、穏健主義においては、人生の価値がその時々で変わる可能性があります。

自殺を考えている際、これはどのような意味を持つでしょう。
ある人が絶望し、自殺を考えている時、その時点(A)におけるその人の人生は確かにマイナスかもしれません。
しかし、仮にその先のある時点(B)における人生の価値はプラスだったとしたら、その時点においてはその人生は生きる価値のあるものとなります。
後にプラスになる人生であるならば、(A)の時点で自殺をする必要はないと言うこともできるでしょう。

2 ) 僕たちは、そもそも穏健主義に基づいて正しく計算できるのか
大きく2つのパターンで考えて見ます。
自殺を考えている人の中には、精神状態が正常でない、錯乱状態にある場合も多いでしょう。
そのような場合に、人生の良し悪しを合計し、正常に人生の価値を判断できるとは断言できかねます。
本人の強い意思を一旦おいておくとすると、その人の判断は正しくない可能性が往々にして存在します。

そして、精神状態が正常である場合でも、判断が正常でないことも考えられます。
穏健主義にもとづいて計算を行う場合、人生における「あらゆる」要素を足し引きし答えを出します。
果たして、我々は人生の「全て」を考慮できるでしょうか。
普通、人生の全てを記憶するほどの容量はなく、覚えている事象は一部です。

「あらゆる」とは言ったものの、その考慮事項は恣意的に決まるのかもしれません。
そしてそれが自殺を考えている時だったら。

無意識であれ意識的であれ、そのような場合はマイナスのことばかりが計算に用いられるかもしれません。そうなると合計は必然的にマイナスになるでしょう。

自殺を考えている際、そもそもその時点において正しい判断ができるとは言い切れず、未来において生きるべき人生が訪れる可能性を否定できないことから、やはり自殺を肯定することは受け入れがたいです。

最近も著名な方が自ら命を絶ったり、僕の周りでそういった決断をする人がいたりしました。

そのようなことに対し、自らの死生観・自殺への批判を投げかけるのは簡単です。
しかし、では自分にとっての死生観、「死」はなぜいけないのか、はたまた良いものとなり得るのか、「自殺」は絶対に悪なのか、などなどまずは一歩考えてみることで、少し世界が変わるかもしれません。

本書はあくまでシェリー先生の考えにもとづくものですが、全てを受け入れる必要は全くありません。
むしろ、シェリー先生の考えにピンとこなければ、それこそ「なぜ自分は受け入れられないのだろう」を問いかけるチャンスです。

最後に、本書で登場するシェリー先生の主な主張を下記に列挙します。
少しでも引っかかるものがあればぜひ本書を手に取って、自分にとっての「死」を、「人生」を考えてみるきっかけにしてみてください!

・魂など存在しない
・存在するとしても不滅とは限らない
・人間は機械にすぎない、ただの物質にすぎない
・機械と言っても人格を持った素晴らしい機械である
・それでもやはり「機械(物質)」にすぎない
・死ねば終わりで、死後の世界などない
・死ぬことは必ずしも悪いこととは限らない
・不死であることは不幸でもある(不死と地獄は紙一重)
・死を恐れることは不適切である
・自殺はときに合理的に正当化できる
・自殺が道徳的にも正当な場合がある

ここまで長々と書いてきましたがやっぱり言葉って難しいなとつくづく感じるくらいに、考えを表現し切れないままだらだらしてしまいました…

これからもぼちぼちと書いていこうと思うのでよければまた覗きにきてください。

by そ



この記事が参加している募集

#読書感想文

187,619件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?