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短編小説『破滅の甘い星』

世界の終わりは、甘かった。

・総字数10,530文字。15分〜20分程度で読めます。
・滅亡寸前の地球でアイスクリーム屋の女の子が恋をする話です。

 
 気温は三十八度を超えた。先ほど南中した灼熱の太陽からは、今日も致死量の熱が地球に降り注いでいる。

 風はなく、東京はただ無音の熱気に満ちていた。アスファルトの上では、陽炎の中でミミズが何匹も干からびている。透き通る青空に浮かぶ巨大な入道雲は、その虚ろな光景を静かに見ていた。

「香坂さん、テレビつけて」

 水色と白の制服に身を包んだ女性が、もう一人の女性に声をかけた。香坂と呼ばれた彼女は、はいと返事をして、店の天井にぶら下げてある大型のテレビのスイッチを入れた。

「……本日午前十一時、火星移住のための第九七五便が地球を出発しました。涼しく快適な環境が整っている火星に向け、人々はそれぞれ期待を胸に、地球を発ちました。
 なお、今月末に出発する便が火星への最終便となっています。まだ地球に残っている東京都民の方は、八月三十一日の午前十時、元国会議事堂前に必ず集合してください。なお、乗船の際には、事前に全国民に配布してある、バーコード付きのリストバンドを装着し、指定のリーダーにかざすように……」

「はー、ついに最後かあ」

 頬杖をつきながら、帽子をかぶった女性がため息をついた。胸には店長の証である、赤いピンバッジがきらきら輝いている。

「小惑星群はいつ落ちてくるんだっけ?」
「秋ですよね? 九月中旬とか」
「ついに母星ともおさらばかぁ、でも火星楽しみだなー、香坂さんも最終便でしょ?」
「まあ、はい」

 葵は笑顔の店長に問われ、つい目をそらして曖昧な返事をした。目を泳がせた先には、アイスケースが色とりどりのアイスクリームを抱いて佇んでいる。葵はケースの中の甘い冷気に満ちたカラフルな世界を、気だるそうな目でぼんやりと見つめた。

「火星は快適だよ」と、既に移住した友人たちは通信するたびにそう言った。二百年ほど前からフレアの勢いを増した太陽からの距離もあり、灼熱の地球とは全く環境が異なるという。平均気温は十五度。自然もあり、動物も棲み、人間の住む環境も整っている火星は、地球に住む全員の期待と救いそのものだったが、葵は火星の風景を何度想像しようとしても、うまく思い描くことができなかった。

「そうだ香坂さん、お店、明日で閉めちゃおうと思うんだけど、いいかな」

 地球にいる間のお給料は出しておくから、と店長が付け足した。

「もうお客さんも一日に一人か二人来るぐらいだし、私たちも早く荷造りしないと」

 他の従業員は既に全員、火星への移住が済んでいる。ならば遠慮は無用と、葵は店長に頼み込んだ。

「なら店長、わたしここの事務所に住んでもいいですか? うち、ボロアパートだから、いつ倒壊するかわからないんです」
「ああ、全然いいよ! そしたらさ、アタシは親戚と合流してから船に向かおうと思ってるんだけど、三十一日の朝にここに迎えに来るよ」

 せっかくだし一緒に火星に行こう、と提案した店長に、葵は「は、はい」と覇気の無い返事をした。

 相変わらず歯切れ悪いなー、楽しみじゃない火星! と独り言を言いながら店内の掃除を始めた店長を尻目に、葵は再びテレビを観た。もう放送している局はこれ一つしかない。唯一残ったその局では、葵たちと同じく、最終便で火星に出発する国民のインタビュー映像を流していた。

――火星に行ったら、何がしたいですか?
――えー、まずはやっぱり外に出てお散歩とかしたいですね。地球だと暑すぎて長時間外にいられないし。
――私は買い物がしたい! もう地球にほとんど物が残ってなくて、超ストレスです!

 目をきらきらさせて火星での生活を語る若者たちを、葵は温度の低い瞳で見つめた。自分と同じ年くらいの人たちなのに、なんでそんなにやりたいことが決まっているのだろう。あの瞳の輝きは、希望そのものだ。そういう人にしか持てない輝きだ。

 葵にとっては、火星も、新生活も、どこか遠い国の話のように思えてならない。火星に行く実感も、そもそも自分がこれからも生きていく実感も、少しも湧かなかった。

 テレビを消し、暇を持て余した葵は、意味も無くドライアイスのケースを開けたり閉めたりした。蓋を開けるたびに白い煙がモクモクと顔の前を通り過ぎていく。マイナス七十度の煙は、毎日空に見える大きな入道雲に似ていて、そのまま店を出て、大空に飛んでいってしまいそうだった。遠い昔、祖母に手を引かれて歩いた夏の道を、葵は微かに思い出した。

 ぼうっとしていた葵の意識を呼び戻したのは、小走りで戻ってきた店長の小声だった。

「香坂さん、来たよ!」

 ガラス戸の外に見慣れた姿をとらえた瞬間、葵の心はすべてその人物に塗り替えられた。火星への無関心、世間への虚しさ、ドライアイスの入道雲、それらすべてが一瞬にして空の彼方に飛び去った。

 カランカランとドアに取り付けたベルが鳴ると同時に、彼は店に入ってきた。相変わらず背が高く、いつものワイシャツ姿で、今日も暑そうに腕まくりをしている。ふわふわの金髪がトレードマークの彼は、グレーがかった瞳を葵に向け、柔らかく一笑した。それだけで葵の幸福度は致死量に達した。

「こんにちは。今日はまたひどく暑いね」

 汗を拭きながら歩いてくる木之本を前に、顔を真っ赤にした葵が何も言えないでいるのを見て、店長が「ほんとにねぇ」と返した。

「ほら、がんばんな」

 小声で葵を励まし、彼女を軽く小突いた店長はそのまま事務所に引っ込んでしまった。店内には冷房のゴーという音と、アイスケースの前で物色する彼の靴音だけが響く。

「やっぱり今日もクリームソーダかな。シングルで」

 かしこまりましたと返事をし、葵はアイスケースを開けた。甘い冷気が彼女の鼻をくすぐり、火照った顔を少しだけ冷やした。慣れた手つきで水色と白がマーブル状になった玉を作ると、それをコーンの上に乗せる。いつの間にか、ぴったりの金額を会計皿に出していた木之本はそれを嬉しそうに受け取った。

「何回来てもこれ頼んじゃうな。たまには他の味に挑戦しようと思ってたのに」と言いながら、幸せそうな顔でアイスクリームを頬張る彼は、スタイル良くスーツを着こなしているだけの、純朴で幼い子供に見えた。

「まだここにいるってことは、香坂さんは最終便なの?」

 名前を呼ばれてどきんと跳ね上がった心臓を押さえ、「は、はい」と葵は声を喉から絞り出した。

「き……木之本さんも?」
「んー……正直、まだ迷ってるんだけどね」

 目を伏せて呟いた彼の長い睫毛に見惚れていた葵は、店長と話していたことを思い出し、慌てて木之本に告げた。

「あ、あの、話変わるんですけど、明日で閉店しちゃうんです、ここ」

 木之本は明らかにショックを受けた顔で目を見開いたかと思うと、力なく笑いながら肩を落とした。

「そりゃそうだよね……もう客も俺くらいでしょ。そっか、残念だな……」

 よほどアイスクリームが好きなのだな、と葵は少し驚いた。思えば去年から週に一度は必ず訪れてくれているのだから、これが彼の大好物であることは容易に想像できた。葵の心に、甘い閃きが一つ浮かんだ。

「あ、あの、でも三十日まではわたしここに住むことになったので、その、在庫が残っている間なら、お売りできます」

 木之本の顔が一瞬にして明るくなった。本当に? いいの? と何回か葵に確認した彼は、満面の笑みでありがとう、と礼を述べた。相変わらず葵の心は早鐘のように鳴っていたが、彼の笑顔だけで心も身体も、すべて幸福で満たされてしまった。

「あの、そういえばさっき、迷ってるって」

 まだふわふわした赤い顔のまま、葵が宇宙船に話を戻そうとしたとき、ピピピピとけたたましいアラームが鳴った。木之本が慌てて鞄の中をまさぐっている。

「ごめん、時間だ! また来るね、ごちそうさま」

 そう言うと、いつの間にかアイスを完食していた彼は、大急ぎで店を出て行った。カランカランとベルの音が大きく響く。

「相変わらず忙しそうねー、ジャーナリストってのは」

 事務所から、店長が目を丸くしながら戻ってきた。葵は、彼との会話を反芻するのに夢中だった。香坂さん、と言った彼の声が頭から離れない。あの人が呼んでくれるだけで、どうしてこんなに素晴らしい名前に思えるのだろう。先ほど浴びた冷気の甘い香りが、彼の記憶とともに葵の脳内を駆け巡った。



 葵の勤めるアイスクリーム屋に木之本が初めて来店したのは、去年の特に暑い日だった。その日の気温は四十度を超えており、ようやく大量の客を捌いたあとにやってきたのが、汗だくの彼だった。第一印象できれいな人だな、としか思っていなかった葵の心に、クリームソーダのアイスを注文した彼の何気ない一言が、まっすぐに刺さった。

「これ、地球みたいできれいですね」

 自分と同じことを思った人を初めて見た葵は、その瞬間、何かが救われたような感覚を覚えた。しかし引っ込み思案な性格から、店員と客の垣根を越えることなどできず、ただ黙って見送るしかできない彼女に、木之本は笑って声をかけたのだった。

「ごちそうさまでした、また来ます」

 なんて美しい笑い方をする人だろう。葵の心の真ん中の柔らかいところが、ストンと落ちる感覚がした。その日を境に、葵の世界に鮮やかな色がついた。

 数ヶ月後、国民の半分の移住が完了した頃、何でもいいから木之本と話をしたかった葵は、勇気を振り絞って声をかけた。

「お客さんは、いつ出発ですか?」

 木之本は一瞬きょとんとしたあと、ああ火星のことですか? と合点が言ったように微笑んだ。

「いやあ、正直迷っているんですよね。地球が滅びるからって、別に絶対逃げなければいけないわけではないし」

 退廃的すぎるって同僚には怒られるんですが、と言って笑った木之本の目を、葵はまっすぐ見つめた。初めて正面から見つめた彼の瞳がグレーがかった輝きを持っていることを、その日、初めて知った。

「いえ、わかります。別に、滅ぶならそうなってもいいと思うんです、わたしも」

 何気なく言ったつもりで目線を外し、いつも通りアイスクリームを手渡そうとした葵は、彼が受け取ろうとしないことを不審に思ったが、次の瞬間、アイスクリームごと手をがっしりと握られた。何が起こったかわからないまま目を丸くして木之本を見つめると、ずいぶん興奮しているらしい彼ははっとしたように手を離し、謝罪した。

「いや失礼、同じ意見の人に出会ったのは初めてで……。お名前を伺っても?」

 そうしてお互いに名乗り、木之本星司という名前を知ったその日、葵はいつまでも眠ることができなかった。



「写真、よかったら見る? 自信作だよ」

 そう言って、仕事で撮ったという写真を木之本が見せてくれるようになったのは、今年の初め頃からだった。会社が東京タワー跡地の方にあるのだと言う。環境ジャーナリストという職業らしい彼は、東京を中心に各地を飛び回って、滅びゆく地球の姿を写真や記事に収め、データにして火星に送っているらしい。それとは別に、こっそり個人でデータを作り、地球に残しておくのだという考えも葵は教えてもらった。

「この小惑星群の衝突による地球の滅亡は、なんていうか、歴史や星の意志のようなものだと思っているんだ。だから、それを尊重して、地球のどんな姿もちゃんと残して、未来に生きている誰かに伝えたい。それが、俺たちの仕事だと思っているからね」

 そう言って遠くを見つめた木之本は、その日もクリームソーダ味を注文した。いつも通り葵からそれを受け取ると、「大切な、美しい母星だしね」と付け足して静かに笑った。

 週に一度、こうして彼と話す機会を得た葵は、彼が地球に対して大きな愛着を持っていることを感じていた。彼から、火星に移住したあとを想定した話は聞いたことがない。彼の頭の中に火星はないのだろうということは、薄々感じていた。

 木之本がいつも注文するクリームソーダのアイスには、ラムネ味の水色とバニラ味の白色が可愛らしく混ざっている。その姿が、宇宙から見た地球にも見えて、地上から見上げた空にも見えて、一度、閉店後に自分でも買って食べたその味は、とても大切な味のような気がした。大切で、懐かしくて、葵にはとても甘かった。



 閉店の日、店長はシャッターを閉め、葵に鍵を渡した。もう夜になるというのに、気が狂ったような暑さは止む気配がない。熱風の中、ほんの少し混じった夜気を感じ、葵は思わず空を見上げた。満月がそっと輝き、瓦礫だらけの暗い地上を静かに照らしていた。

「じゃあ、頼むわね。店番してくれるんだって? もう木之本さんしか来ないかもしれないけど、よろしくね」
「はい。店長もお気をつけて」
「二人きりだからって、事務所に連れ込んだりしちゃだめよ?」

 顔を真っ赤にして怒った葵を笑いながら、店長は軽い足取りで歩き出した。

「じゃあ、三十一日に! 朝来るから!」

 手を大きく振った彼女を見送った葵は、そのまま店の看板を見上げた。そこまで古くない店のはずなのに、塗装が色落ちてぼろぼろになっているのは、日光と熱のせいなのだろうか。アイスクリームの絵を模した看板は、熱を孕んだ風を受けてガタガタと揺れている。子供の頃、あの看板を見て憧憬を抱いていた記憶が、葵の脳内を横切った。

 アイスクリームは、葵にとって幸福そのものだった。彼女が子供だった頃、既に日本の四季が曖昧になるほど平均気温は上昇していたが、それでも夏と言える季節があった。夏になると、祖母は必ずアイスクリームを作った。コーンとアイスを別々に買ってきて、わざわざアイスクリーム専用の丸いシャベルまで買って、バニラやソーダやチョコレートの、少し歪な形のアイスクリームを丁寧に作り、目を輝かせている葵に手渡した。葵は、甘い物が好きな祖父と一緒に、それを食べるのが何よりも好きだった。アイスクリーム屋のきれいなアイスに憧れたのも事実だが、祖母の手作りのアイスクリームは、世界で自分だけしか食べられない。この丸くて甘い、冷たいものの中に、宝物が詰まっているような気がした。

 既に他界した父の遺品の中に、星の図鑑があった。葵はそれを眺めるのも好きだった。図鑑の中の赤い星や金色の星は、葵を夢中にさせた。特に、青く美しい星が葵の一番のお気に入りで、これが自分の住んでいる星なのだと知った日、葵は嬉しくて嬉しくてなかなか寝付くことができなかった。

「なんだ、葵は星が好きなのかね」

 無数の皺が刻まれた、祖父の優しい大きな手がそっと図鑑をめくった。

「ワシらの星はどれかな? 知ってるか、葵?」

 葵は得意げに、小さな指を一つの星の絵に当てた。

「これだよ! ちきゅうだよ」

 おお葵は物知りだ、と祖父は笑って喜んでみせた。

「これね、アイスみたい。すきなやつ」
「言われてみればそうだなあ、葵がいつも食べてるソーダのアイスに似てるなあ。葵は感性が豊かだなあ」

 祖父の言うことが半分よくわからないまま、幼い彼女は幸せそうに、しわくちゃの優しい手に撫でられていた。

 きっとどれだけ生きても、この大切なセピア色の記憶は、わたしの中で光り続けるのだろう。そう思っていた葵の心は、鮮烈な出会いに溶かされることになる。不意に、大好きな人の優しい声が、リフレインして響いた。

――これ、地球みたいできれいですね。



 はっと目を覚ました。遠くで建物が崩れた音で起きてしまったらしい。葵は即席で作った布団からもぞもぞ這い出し、寝間着のまま事務所のドアを開け、店から出た。

 腕時計を見ると、午前四時だった。東の空がうっすら白み始めている。南の方角で崩壊したらしい建物の土煙がここからでもよく見えた。何の音もしない。鳥の声も、街の声も、人の生活音も、何も聞こえない。もう死んでしまったような地球の上で、葵の頭の中にあることは、ただ一つだった。

「木之本さんの夢、見れた……」

 顔を赤らめて遠くを見つめる彼女の頬を、埃っぽい熱風が撫でていった。



 八月三十日、歩いているだけで茹だってしまいそうな暑さの中、木之本は来店した。

「これが最後かあ、明日は朝出発だもんね」

 最後の日もクリームソーダのアイスを注文した彼は、汗を拭きながら一口一口を大切そうに食べていた。

「店長さんはどうしたの?」
「ご親戚に会いに行ってます。明日の朝、ここに迎えに来るって」

 ようやく彼の前で噛まずに話せるようになった葵は、それでも緊張しながら彼の質問に答えた。

「そうか、じゃあ香坂さんは安心だね」

 不意に、沈黙が続いた。葵は場を持たせるために何か話そうと思ったが、ドアのガラス越しに外をじっと見つめる木之本が、どこか遠くに行ってしまっているようで、躊躇せざるを得なかった。顎のラインがスッと通っている横顔がきれいだなと、ぽうっとした頭で彼を見つめた。

「あの、テイクアウトってできるかな」

 外を見つめていた彼が急に振り向いたので、思い切り目が合ってしまった葵は狼狽した。

「あっ、え、えっと、できます」
「じゃあ、クリームソーダのシングル、一つ持ち帰りで」

 かしこまりました、と言いながら葵は木之本の顔をちらりと窺った。いつものような無邪気な笑顔ではなく、何かを諦めたような、大人の微笑だった。

「お持ち帰り時間はどのくらいですか……? ドライアイス、これだけあるんですけど」
「ああ、ここから会社までだから、二十分くらいかな」

 はい、と返事をしながら葵はドライアイスを箱に詰めた。会社に持って帰るということは、同僚の誰かにあげるのだろうか。この人からアイスクリームをプレゼントされる人は、どんな人なんだろう。胸がちくりと痛んだ。

 テイクアウトの箱を手渡したあと、これが最後のチャンスだと思い、葵は話を切り出そうとした。

「あの、木之本さんは、宇宙船……」

 乗るんですか、と言い終わらないうちに、彼の携帯電話がピリリリと鳴った。「ごめん、会社からだ」と断ってその場で電話に出た彼は、データがどうだの、あの書類はどこにあるだの、葵によくわからない話をしていた。

「ごめん、早く戻って来いって怒られた」

 電話を切った木之本は苦笑しながら、慌てて店を出た。お見送りしますと言って一緒に外に出た葵の白い肌を、灼熱の光が刺した。

「じゃあね、明日気をつけるんだよ」

 そう言っていつもの爽やかな笑顔で走って行ってしまった彼を、葵は見送ることしかできなかった。何も聞けなかった。何も言えなかった。これが、彼に会える、人生最後の日だったかもしれないのに。

 葵は、木之本が宇宙船に乗るなら自分も乗り、乗らないのなら自分も地球に残ると決めていた。彼が火星に興味を持っていないことはわかっていたが、まさか本当に残るのか、判断がつかなかった。地球に残るということは、この星と一緒に死ぬということだ。

「……自分で自分の未来も決められないから、わたしは弱いままなのかな」

 ぽつりと自分に吐いた言葉は、ひび割れた地面に落ちていく。

 瓦礫だらけの商店街を、笑顔で走り去っていく彼の姿が脳裏に焼き付いた。死んでいる風景の中で、彼だけが生者のようだった。あんなに美しく笑う人を、葵は他に知らない。

最後くらい、好きだと言えればよかった。 足元に横たわるミミズの死骸が、静かに葵を見つめている。最後くらい、好きだと言えればよかった。



「さすがにおっきいねー、これに乗るのか」

 三十一日の朝、葵は約束通り迎えに来た店長と一緒に、元国会議事堂前で乗船を待機していた。店長は心底ワクワクした様子で、白と水色の巨大な宇宙船を眺めている。色合いがうちの制服に似ている、と葵は思った。

「結局、木之本さんは来たの?」
「はい。あんまり喋れなかったけど」
「そっか。来てんのかね、ここに。でもこれで最後だし、いないわけないか」

 店長はそう言って、キョロキョロと辺りを見回した。東京に、まだこんなに人が残っていたのかと思うほど、広場は群衆で埋め尽くされている。不安そうにしている人はほとんど見られず、ほぼ全員が友人や家族と談笑したり、珍しそうに宇宙船の写真を撮ったりしていた。

 お待たせしました、と宇宙船のそばで公務員と思しき女性がアナウンスを始めた。

「ただいまより乗船を開始させていただきます。リストバンドに記載されている番号順にお呼びしますので、ご自分の番号が呼ばれましたら、搭乗ゲートにバーコードをかざしてご乗船ください」

 葵の番号は四二五、店長の番号は四九六だった。

「どっちも四百番台だね。百人ずつ呼んでるっぽいし、一緒に乗ろう」

 はい、と葵は答えたが、内心はそれどころではなかった。先ほどからしきりに周りを見渡して木之本を探しているが、彼の姿はどこにも見当たらない。

「店長、木之本さん見ました?」

 不安そうな顔で店長に訪ねたが、彼女も困ったような顔で葵に返した。

「いや、全然見当たらないのよ。あの金髪、目立ちそうだけどねぇ」

 葵の中に、得体の知れない焦燥感がみるみる込み上げていく。ここに彼がいれば、安心して火星に行くことができるのに。いや、わたしはそもそも、どうしたいんだっけ。

「四九九番までの方のご搭乗を開始しました。該当の番号の方は、順番にご搭乗ください」

 順番が来てしまった。きっと船の中で会えるよ、と店長は葵の背中を押して搭乗口まで歩いて行く。葵は最後まで周りを見回していたが、きっと会えると自分に信じ込ませ、リストバンドをかざそうとした。

 その瞬間、背後の方で悲鳴が聞こえた。葵が振り向く前に、悲鳴はドオンという爆音で掻き消された。

 東の方角に、とてつもない量の土煙が上がっていた。何が起こったのかわからなかったが、悲鳴を上げていた周りの人たちの声を聞くに、小さな隕石が落ちてきたらしい。

「うっわ……来月なんて嘘でしょ。もう落ちてくるんじゃない? 小惑星群。ていうか、あれ、ウチの店の方角じゃない」

 店長の言葉を聞いて、葵は血相を変えた。店の近くということは、彼の会社も近いはずだ。まさかと思うが、もし、本当に、彼がここにいないのだとしたら。

 葵は、リストバンドを引きちぎってその場に捨てた。驚いて制止する店長を振り切って、風を切るようにその場から駆け出した。まだざわざわしている群衆の中を縫って、一心不乱に走った。香坂さん、と店長が叫んでいるのが聞こえる。

「ごめんなさい、店長!」

 これが、彼女と交わす最後の言葉になることはわかっていた。全力疾走するのも、こんなに大声を出したのも、いったい何年ぶりかわからない。葵は、自分の心と命が、初めてつながったような気がした。



 東京タワー跡地に向かって、走って、走って、走って、走った。土煙がどんどん近くなっていく。落ちたのは小さな隕石らしいが、それでもここまでの爆発を起こすのかと葵は顔を青くした。落下場所に向かって走っているので、眼前の空を煙が覆っている。いつも見える青空と入道雲が、見えなかった。

 ずいぶん走り、葵は膝に手をついて、大きく短い呼吸を繰り返した。肺のあたりが苦しい。もっと普段から運動をしていればよかった。そう思って再び前を向いて、見慣れた金色の髪が目に飛び込んできたとき、疲労も忘れて葵は再び走り出した。

「きっ、木之本、さん」
「香坂さん!?」

 瓦礫の上に座り込んでいた木之本は、息も絶え絶えになっている葵を見て酷く驚いた。

「大丈夫? ていうか、なんでここに……」

 彼は苦しそうに息をする葵の背中をさすり、諦めたような優しい声で尋ねた。

「……乗らなかったの?」
「き、木之本さんこそ」

 ようやく話せる状態になった葵は、ゆっくり息を吐きながら問い返した。落ち着いて周りを見ると、ほんの数キロ先から土煙が発生しているのがわかった。

「びっくりしたよ。小惑星群がもう落ちてきたのかと思った」

 煙がだんだん晴れ、青い空が透けて見えるようになっていく。他人事のように笑う木之本を見て、葵はむっとした。

「心配したんですよ。なんで、なんで乗らなかったんですか……」

 木之本は葵を見て、「君こそ」と優しく笑った。

「最初から、火星に行こうとは思っていなかったよ。この星が好きなんだ、俺は」
「そういえば、こっそりデータを残すって……」
「それも済んだ。カードに保存して会社の地下に埋めてきた。未来に残ってくれればいい。……残らなくても、それはそれでいいかな」

 ぬるい突風が二人の髪を激しく揺らした。葵は自分の髪の隙間から、木之本が何かを取り出すのが見えた。

「君が来てくれたから、最高の終わりになる。食べない?」

 そう言って、彼が携帯型の保冷箱から取り出したのは、昨日葵が最後に売ったテイクアウトのアイスクリームだった。

「最後、一人で食べようと思ってたんだけど、香坂さんなら話は別だ。一緒に食べよう」

 熱風が吹き荒れる瓦礫の上に座り、二人で一口ずつアイスクリームを食べた。間接キスだ、と葵は顔を赤らめたが、木之本はそれに気づかず、ぽつりと話し始めた。

「情けない話だけど、本当は寂しかったんだ。一人で死ぬのかなって」
「……」
「だから、君は俺の救いだよ。本当に」

 普通の人が言えば恥ずかしさに負けてしまいそうな台詞を、彼は違和感なくさらっと言ってのける。さらに顔を赤くした葵は、心臓を落ち着かせるために慌てて話を変えた。

「こ、ここまでアイスが好きだなんて、思ってませんでした」

 木之本はきょとんとしたが、すぐに子供のように微笑んで見せた。爽やかで、純真な、葵がいつも見ていた笑い方だった。

「はは、俺もアイスが好きってだけで、暑い中わざわざ店に通ったりしないよ」
「え?」

 木之本はゆっくり笑みを消し、真剣な顔でじっと葵を見つめた。

「俺が好きなのはアイスだけじゃないって言ったら、君には伝わるの?」

 木之本の顔は、火星よりも赤くなっている。言葉の意味がわかった葵は、彼以上に頬を紅潮させ、何も言えなくなった。彼を映した真っ黒な瞳が、震えるように煌めいた。

 遠くでビルが崩れる音が聞こえる。どこかで電柱が燃えている。それでも彼女の瞳に映るのは、目の前にいる一人の男だけだった。

 寿命わずかとなったこの星の上で、葵の恋は、全速力で動き出した。


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