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群衆哀歌 26

Before…

【三十六】

 怪我の治癒には相当の時間を要した。
 その間はオンラインで講義を受けながら単位を取れるように病室で懸命に勉強した。元々得意では無かったが、見舞いに来てくれるトモダチ、そしてカノジョと呼べる存在が助けてくれた。

 山本は几帳面に記録したノートを見せてくれて、講義ごとに要点を教えてくれた。とても分かり易く、オンライン特有の通信差やノイズで聞き取れなかった部分を補うには十分過ぎた。

 春はどうやら感覚でモノが理解できてしまうタイプらしく、説明を受けても中々自分の中に落とし込めず苦労した。どちらかというとその後の下らない話で笑い合う時間が幸せだった。

 哀勝は、流石元国立大ということもあって、定期考査に出るであろうポイントを指摘し、ここを山本のノートで勉強しておけば大丈夫、とアドバイスをくれた。そして、勉強はもう大丈夫でしょ、と言って他愛もない話に花を咲かせた。
 荒みきった一年半だったが、身を守る為に纏った無数の棘を、一つずつ優しく抜いてくれている感覚に溺れた。彼女の言葉は、それくらい身に沁み、心に沁みていった。

「あの時さ、普通知らない人に声掛けて助けてあげるなんて中々できることじゃないと思うんだ。それができるのは、喜一だからだと思うよ。結果は酷かったかもしれないけどさ、それは喜一の優しさだったんだよ。胸張っていいよ。」
 ある日、いつも通り要点押さえを終えた後、いつものように話していた時に、少し間を置いて哀勝が口を開いた。そして、飼い犬に愛を込めるような優しい手つきで、俺の頭を撫でた。
 頭を撫でられながら、込み上げてくるものに耐え切れず声を上げて泣いた。哀勝の膝に顔を伏せて泣き崩れた。彼女の膝は濡れてしまったが、膝枕は俺の中に巣食う漆黒の靄を受け入れてくれた。この人を、生涯かけて大切にしてぇ。
「ほんと、見た目に反して泣き虫なんだから。」
 涙で滲んで見えなかったが、哀勝の声も少し震えていたのは確かに分かった。
「お互い様だろ、似た者同士さ。」
 泣きじゃくりながら、こう返事した。

 退院は夏季休暇に入る間際だった。怪我は無事完治し、仲間の支えもあって何の問題も無く単位を取得し、授業も、リハビリも、何とか乗り越えることができた。

 今日は、俺の退院祝いがある。集合場所は、あのバー。

【三十七】

 集合時刻の一時間前に、バーの扉を開いた。開店時間と同じ時間に、四人掛けの席を確保して、一人先に甘ったるいキャラメルの香りがするお酒をゆっくりと飲み、煙草に火を点ける。
「珍しいね、お嬢さんが一番乗りなんて。」
 マスターが声を掛けてくれた。そうだよね。いつもは喜一が先頭切って飲んでるから。
「私が幹事なんです。それに、皆で飲む前に色々考え事したくて。」
「そうかい。俺は男だから完全に分かるって言い切れないけどさ、そうやって一人でじっくり考えたい時もあるよね。これ、どうぞ。」
 差し出されたピスタチオ。殻をそっと剥がして口に運ぶ。甘いお酒に丁度良い塩っ気。ゆっくりと、ひとつひとつを口に運び、白く甘いお酒で流し、紫煙をすぅっと吐く。

 お見舞いに行った時の出来事を思い出す。勉強は余裕だったけれど、私も心の殻に閉じ籠っていた身。彼も似たようなものだろう。彼の前では年上ってのもあって、少し格好つけたくなっちゃうんだよね。
 でも、彼が少しずつ、今まで以上に素直になっていくのが分かったんだ。あの時喜一めっちゃ泣いてたけど、もらい泣きしてたのはバレてたかな。

 口元が少し緩む。似た者同士、かぁ。初めて話した時に勘付いてはいたけれど、本当に色々似てたね。彼は群衆から離れて孤高を選び、私は群衆に溶け込んで孤独を誤魔化した。根本は一緒だった。同じ「人間」と一括りにされるモノの中で、生物学的に二種類に分かれた別々のモノに怯えていたんだね。私に勇気をくれたのは、両親でもお医者さんでもなく、喜一だったよ。

 最後のピスタチオの殻を剥がした時、中身がぼやけて見えた。どうしてだろ。手元が見えない。屈んだ時に煙草の火種が消える音がした。
 マスターが一枚のハンカチを置いた。目元を拭く。濡れている。私、何で泣いてるんだろ。酒は空っぽだった。とめどなく流れる涙に嗚咽を堪え、ハンカチで顔を覆った。

 ハンカチを抑える手に、冷たいものが触れた。驚いてハンカチを離すと、見慣れた青髪の彼が二杯のバタースコッチミルクを持っていた。一番会いたかった人。真っ赤に腫らした目を開き、グラスを受け取る。

「全く、見た目通りの泣き虫なんだからよ。」
「いつからいたのよ、お互い様でしょもう。」

 手渡されたグラスに彼はコツン、と軽い音を鳴らして二人で勢いよく一口飲んだ。涙は止まった。ピスタチオの殻を、喜一がゴミ箱に捨てた。
「やっと、振り切れたみてぇだな。」
 喜一も大分察しが良くなったね。でも、あと一つだけ欲しいものがあるんだ。それは、今日貰えるかな。それを望むのは、ちょっと欲張りかな。

 彼が青髪を靡かせて立ち上がった。私に手を差し伸べた。差し伸べられるまま、その手を掴んだ。掴んだ手は指を絡めて握り直された。
「マスター、俺らこういうことになりました。流石に照れるんで、十秒だけ後ろ向いててもらっていいですか?」
「あいよ、粋な男だね。喜一。」
 マスターが私たちに背を向けた。その瞬間、今までで一番優しいキスをされた。物分りがいいね、喜一。終わって欲しくない、永久であって欲しいという十秒。また涙腺が壊れた。それもまた、今までで一番温かい雫だった。雫が二人の頬を伝う。ずっと、ずっとこのひとときが続けばいいのになぁ。

 その十秒が呆気なく終わったのは、七秒後に鳴った店の扉が開いた時に鳴るベルの音だった。

Next…


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