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群衆哀歌 17

Before…

【二十五】

 覚悟はしていた。「自分と似ている」と言っていた時点で、悲しい話が来るだろうということは分かっていた。しかし、哀勝のその話は、俺の心を抉るどころか、生傷を出刃包丁で何度も突き刺すような、閾値をゆうに超える重力だった。心が深海へと堕ちてゆく感覚がはっきりと自覚できた。

 哀勝の話が始まってから一口しか飲まなかったバタースコッチを一気に飲み干した。純粋に喉が渇いていたのはあるが、それ以上に口実が欲しかった。
「わりぃ、話聞くのに夢中で喉渇いて飲み干したら気持ち悪くなってきた、厠行ってくる。」
 そうして便所に駆け込み、腹の中にある全てを吐いた。酒の所為ではない。自分が一番分かっていた。春と出会い、徐々に吐く頻度は減っていき、哀勝、山本と行動するようになってからは嘔吐は完全に無くなっていた。久々に喉が胃酸で焼けていく。酒も入っているから尚更タチが悪い。吐くものが無くなっても、嗚咽を止めることはできなかった。

 どれくらい経っただろうか。乱れた呼吸と吐き気が治まり、やっと席に戻ることができた。そこには温かい烏龍茶が置かれていた。
「喜一、おめぇ大丈夫か?一気飲みなんてすっからだよ。とりあえず口ん中スッキリさせとけって。」
「すまん、さんきゅ。」
 温かい烏龍茶は、極寒の深海を微かに温めてくれた。しかし、温めるには些か熱量が足りない。物理的にではなく、説明できない何かが足りない。
 哀勝は、切なそうな笑顔でこちらを黙って見つめていた。(やっぱりね、ごめんね)と囁く声が聞こえた気がしたが、気の所為だろうか。

 山本に背中をさすられながら、全員で店を出た。
「哀勝センパイ、御馳走様でした。折角奢ってもらったのに、ブチ撒けちゃってすんません。」
 どうしても言っておきたかった。礼儀としてというよりも、この動揺を隠し通すために。
「いいよ、今更先輩なんて要らないし、学年一緒だし。変な飲み方するでないぞ、全く。」
 コツン、と軽く頭を叩かれる。それもまた、冷え切った海底に届く温もりだった。その場で解散となり、去り行く三人を煙草を吸って見送った後、足は自宅ではなく別の目的地へと進み始めた。

【二十六】

「集合!」
 メッセージアプリに送った。すぐに既読表示が出た。何の返事も無い。逆にそれが、肯定を表す意思表示だった。そのメッセージに応じて、受け取った面々は走り出した。

【二十七】

 自販機でギリギリ一桁度数の缶チューハイを買って、煽る。深海の水温は温まる訳がなく、寧ろ更に冷ややかさを増す。いつもより目的地が遠く感じる。少し強く、暖かい風がひゅるりと吹いた。青髪が靡き、刈り上げた側面が露わになる。もう一口勢いよく飲んだ。我を失っていく感覚。深海どころか、ヘドロまみれのドブのどん底にいる気分だ。汚泥に塗れるように胃に入ったばかりのアルコールは勢いよく吐き散らかされた。胃酸の不快感を、酒で再び胃に戻す。遥か遠く感じた、安息の地へと辿り着いた。

 普段のベンチに目もくれず、その脇にある階段を進む。朽ち錆びた門を蹴り飛ばして道を空けた。酒は残り半分ほど。体力はどちらかと言えばある方だと思っていたが、この精神ではたかだか三階程度の階段でさえ息を切らしてしまう。
 目的地は、オアシスである廃墟の屋上だった。春先とはいえ夜は冷えるが、今晩は不思議と生暖かい風が吹く。震える手でオイルライターを回したが、突風で火は消え、それが最後の力だったとでも言わんばかりに、何度回しても火花が散るだけだった、
 ポケットに忍ばせていたターボライターを付け、酒を煽りながら夜空とか細い街の街灯を眺めて煙草を吸う。紫煙を深く吸い込んでは吐くことで深呼吸となり、徐々に冷え切った心はその冷たさに慣れていく。

「本当、俺と似てる奴だな。」
 独り言を漏らしながら、度数の強い、手軽に酔える酒に身を任せる。あのBARでは、全く酔えなかった。いや、酔い始めている直前でストッパーがかかったのだ。哀勝の傷は、俺の頭で思っていたよりもずっと深く刻み込まれていただろう。よく話せたものだ。凍結寸前の精神だからこそ、極めて冷静にモノを考えられる。極めて冷静な脳味噌は、些細な変化も見逃さない。

 遠くから、ボロの階段を登る音が聞こえる。恐らく、三人。俺の頭の中で、三人の顔が過った。今、あいつらに逢えたら、きっとヘドロ漂う海の底から俺を救い出してくれるだろう。淡い期待が脳裏を掠める。俺らしくねぇな、と呟いたところで足音の主は階段を登り切ったようだ。不思議なことに、一人しかいない。それも、今最も見たくない顔面だった。

【二十八】

「よぉ。加藤。久し振りじゃねぇか。」
「何が久し振りだ手前この野郎。さっきよくもダセェ目にしてくれたなコラァ。落とし前付けてやるよ畜生!」
 聖域を汚すクソ野郎の目は完全にイっている。何かキメて来たなこの大馬鹿。大振りの拳は、躱すことなど容易い。しかし、一発貰っていく必要がある。若干千鳥足でも、敢えてその拳を顔面で受け、そこに重ねてカウンター気味に腹へ拳を叩きつけることは余裕だった。
「ぐへぇ、おぅえぇ!」
 酔っ払い馬鹿対ラリった馬鹿の闘いは、あっさりと決着がついた。上着を脱ぎ捨て、殴り飛ばした加藤の顎にアッパーカットを一発。そのまま胸倉を掴み上げ、春風を浴びせながら頭突きを三発喰らわせて鼻血を噴かせた。
「先にやったのはおめぇだぞ、学習しねぇな馬ぁ鹿。」
 胸倉を掴み上げたまま、錆びついた柵に加藤を押し付ける。今にもへし折れそうに、哀しくミシ、ミシと音が鳴る。お返しとばかりに加藤も頭突きを返してきた。鼻に直撃し、俺も血を噴いた。冷静だった心に、灼熱の溶岩が流れ込む。
「まだ懲りねぇのかこの野郎!」
 左手で胸倉を掴み直し、数時間前に蹴りを叩き込んだ腹へ拳を叩き込んだ。
「逆恨みされる筋合はねぇよ!おめぇがバラ蒔いた種だろうが!自業自得ってんだよ!」
 顔面にもう一発頭突きをかました。返り血が額から垂れる。足払いで加藤を倒し、柵際で馬乗りになる。
「さっきやられた仕返しか?どっからアト着けて来やがった?えぇ?」
 加藤は、何故か笑っている。感情的になり過ぎた脳が冷静さを取り戻そうとした時、目に赤い霧が勢いよく飛んできた。毒霧だ。
「学習しねぇのは手前だよバーカ!一人で負けた奴がまた一人で来ると思ったのかよ!」
 そうだ、足音は三人ぐらいだったはずだ。気付くのが遅すぎた。一度視界を奪われ、辛うじて開いた目には、鉄パイプを持った二人が立っていた。ぼやけて殆ど見えないが、知らない奴だ。
「死ねコラァ!」
 一人が鉄パイプを振り下ろす。ギリギリのところで躱したが、ここに来て酒が祟った。立ち上がる足がふらついた。その隙を突かれ、加藤から足払いを喰らった。再び倒れ転がり、仰向けになった顔面に、冷たい鋼鉄の鈍器が直撃した。

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