青い春夜風 07
Before…
【七】
明るくなり始めた時までは記憶が朧げにあるが、結局眠ることはできたようで、雅に叩き起こされた。
「光佑、いい加減起きなよ。うりゃっ。」
頭をぺしぺし叩かれ、遠くから聞こえた声が徐々に近付いて、漸く遅くて浅い睡眠が終わった。
「わり、おはよーさん。あんま寝た気しなかったわ。」
「勝手にやったけど、珈琲淹れたよ。これでスッキリするっしょ。」
春先とはいえ、朝はまだ暑いとは言い切れない。窓を開け放ったまま寝てしまったこともあるだろう。程良く涼しくて爽やかな風が室内の空気を入れ替えてくれる。
寝起きの煙草は美味しい。そこに珈琲が合わされば完璧だ。ミルクでまろやかに、かつ飲みやすい温度に調整されているから素晴らしいもんだ。ゆっくり珈琲を啜った。
「昨夜眠れなかったのって、もしかして俺にキスしたから?」
喫煙者にとってやられたら嫌なことの一つは、煙を吸い込んで吐き出す直前に驚かされたり、笑わされたりすることだ。煙が棘のように喉に刺さり、激しく噎せてしまう。
「お前、あん時寝てたろ!?」
噎せ返りながら咄嗟に言い返してしまったが、これでは動揺しながら「イエス」と言っているのと変わらない。
「やっぱりー!光佑は俺と違って酒強いから、酔っ払ってなんてことは無いよね。べろ酔いの俺にキスされたの、実は嬉しかったり?」
返す言葉も無い。黙ってゆっくり煙草を吸うが、唇の辺りが妙にくすぐったいような気がする。
「ま、俺はいーけどね。特にそういうの抵抗無いし、先にしたの俺だし。普段クールで武闘派の光佑にも、可愛いところあるじゃんか。」
恐らく、今の俺は昨日の雅よりも顔が赤い。サーモグラフィで見たら、顔の周りだけきっと真っ赤だろう。何を話せば良いか分からない。
「だいじょーぶだよ。言いふらしたり、嫌ならイジったりしないから。とりあえずさ、うちで朝飯食ってきなよ。また勉強教えてあげる。」
流石は長いこと馴染みの親友である。窓から吹く春風に負けないくらい爽やかな笑顔で、昨日の衝動的になってしまった俺をあっさりと受け入れてくれた。本当、いい奴だな。
雅の商店に移動し、トーストと目玉焼き、ベーコン、レタスのサラダをご馳走になった。珍しく雅の手作りだ。味付けに特別な工夫がされているわけでは無かったが、こいつらしいシンプルで分かりやすい味だ。
「美味いよ。シンプル・イズ・ベストって感じ。」
「光佑にメシ褒められると嬉しいよ。光佑は味付け凝ってるもんね。」
「そう、かな。逆にゴチャゴチャし過ぎてる気がしてくるよ。参考にさせてもらうわ。」
「まじ!?やったぜ!」
幼さが残る馴染みの友。いつものように微笑ましいが、そこに何か複雑なものが絡まっているような感覚が確かにある。
「今日は数学、頼むわ。」
ヨガ教室へ行くばーさんを二人で見送り、店番しながら勉強というすっかりお決まりになった流れ。雅の教え方はとても分かりやすいのに、今日はどうにもしっくり入ってこない。方程式を解いていたが、凡ミスを四つもしてしまった。
「珍しいじゃん、発展問題完璧に解けてるのにイージーミスばっか。さてはまだ昨夜のアレ気にしてるな?」
直球ど真ん中の図星を食らい、潔く認めるしかなかった。
「あぁ、そうだよ。あん時は色んな意味で動揺したけど、嫌悪感とか全く無かったんだ。寝る前に一服してた時にもう一回してみたくなって…。」
「そっか、俺は何だか誇らしいというか、嬉しいよ。」
いつも宥める側にいる俺が、今日は宥められている。いつもより、小動物のような幼馴染が大人に見えた。
変な空気になりかけていた時、丁度良く客が来た。この間みかんをくれたおじいさんだ。
「らっしゃい、この間はみかんありがとうございました!」
「おぉ、今日も二人で勉強か。関心関心。塩胡椒を切らしてしまってね。在庫あるかい?」
「いっぱいあるよ!」
ぱたぱた駆け回りながら、塩胡椒に続く注文を店内からかき集めては慣れた手つきで会計する。すぐに済ませ、おじいさんは胸ポケットから煙草を取り出して店先のベンチに向かった。
「お前さん達も、ひと休みせんかい?じじぃの戯言に少し付き合っておくれよ。」
自動販売機でジュースを二本買ってくれた。二人お礼を言って、ジュース片手に一服する。おじいさんの表情が凛とした。
「お前さん達、学校にはまだ行かんのかね?わしらの時とはもう時代が違うし、学校に行くことだけが正しいとは思わんよ。だけど、今年は受験の年じゃろ?中卒で働くというなら何も言うことは無いが、将来の夢が何かあるなら、学校で過ごすことにも慣れておかにゃいけんのとは違うかい?」
心配になって雅を見た。意外なことに、家庭訪問の時のような曇った表情では無かった。例えるなら、雨上がりの太陽のようだ。
「そーだね、おじいさんの言う通りだと思う。実は一昨日から昨日にかけてちょっとした事件があってね。何か変わった気がするんだ。五月ぐらいから動き出すつもりだよ。それまでに、やること済ませなきゃいけないんだ。」
「雅、マジか?」
びっくりして聞き返してしまったが、雅もおじいさんに負けないくらい、真剣で凛々しい表情だった。
「マジ。今年になったら何かトリガーになるきっかけ見つけようと思ってたんだ。蓮ちゃんと三バカトリオのお陰で随分早く動けそうだよ。」
おじいさんはぱぁっと桜が咲いたように笑顔になった。とても安心した様子。
「ほうかい、ほうかい。口うるさいじじぃだって思われんで良かったわい。わしゃ応援するぞ、頑張ってな。二人とも。じゃあの。」
「毎度あり!またね!」
おじいさんを見送った後、店内に戻って話の続きをした。
「雅、さっきの本気か?おじいさんに心配掛けないように、とかじゃねぇよな?」
にこにこ笑いながら、無邪気に答える雅。
「俺ら菊宮小組は、毎年北小の連中にやられたい放題じゃん?小学校までは皆仲良くやってきたのにさ。入学する前からセンパイ達に聞いてたよね。俺はそのクソみたいな暗黙の了解を変えたくて、あーやってたんだ。結局逆効果になって凹んだけどさ。」
「あれは、お前悪くねぇだろ。自制できなかった俺に責任がある。」
「それ以上に、光佑を怒らせたあのバカ軍団の方に責任があるよ。昨日の一発で、なんとなくだけど、何か変わった気がするんだ。俺らだけじゃなくてさ、狭苦しい思いしてる元菊宮小の奴らにものびのびしてほしいんだ。今更だけどさ、卒業がもう近いからこそ、今年はあいつらも窮屈な現状から解放してあげたい。だから、連休明けに俺は動く。光佑にも散々心配掛けて付き合わせちったけどさ。」
凛々しい表情を一切崩さずに語る雅を見て、底知れぬ安堵が込み上げてきた。雅の為に、俺は不安定だった雅を支えてきたつもりだった。だが、雅は幼く見えて、その心の中に大きな野望を持っていた。「誰かの助けになれれば」という夢を、早くも叶えようとしている。
「俺が協力しねぇわけにいかねぇだろ。勿論手ぇ貸すぜ。散々世話になったんだ。二人で卒業するまでにいっぺん夢叶えようぜ。」
「あははっ、学校で飲み明かした時の覚えてたんだ。頼むぜ相棒、気に食わねぇ奴ぶっ飛ばすのは拳だけじゃねぇさ。一個下や二個下の蓮ちゃんの代の為にも、んでもってその先の為にも、ゴミみたいな伝統はとっととぶっ壊して捨てちまおうぜ!」
「おう!」
缶が強くぶつかる音と、残ったジュースを一気に飲み干して鳴る喉の音、そして強烈なハイタッチの音が小さな商店の中に響き、二人の決意が燃え上がった。
Next..
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