青い春夜風 03
Before…
【三】
古い団地の一角で、慣れた手つきで壊れたインターホンを押し、すぐさま扉を二回ノックする。これが、俺の家庭訪問の合図。
「晴野っち、おつかれ!はいこれ、差し入れ!」
思っていた通り、家主より先に腕白な少年が飛び出してきた。手にはお茶のペットボトルを持っている。
「雅、随分汗かいてるな。運動でもしてきたのか?」
きゅるんとつぶらな瞳で、少年は言葉を投げ返す。
「そそ、スケボーやってたんだ!夕方まで店番しながら光佑に勉強教えてさ、そーだこれ、近所のおじいさんがくれたみかん。」
「なんか色々貰って悪いな…。こーゆーの、本当は良くないんだけどな。」
と言いつつも、疲れた身体は正直なもので、冷えたお茶を喉に流し込むと幾分か緊張が解れた。
「雅、晴野先生困ってんだろ。とりあえず、玄関じゃアレだから中入ってもらえよ。」
家主はダイニングテーブルに腰掛け、椅子を引いて迎えてくれる。雅に引っ張られるがままに、席に着いた。みかんの皮を剥きながら、ここに来るまでの出来事を振り返り、今日の目的を果たそうと試みる。
午後十八時より、学年スタッフでの情報交換があった。新学期二日目を終えて、生徒たちの様子はどうだったか。交友関係に歪は無かったか。新クラスに対する反応はどうか。
主任の進行で、一組の担任である相本先生、二組担任の沢村先生、そして三組の俺、そして副担任の順で情報共有した。染髪やピアス等、目立った生徒の変化は見られなかった。
「念入りに学級の編成会議した甲斐がありましたね。どの生徒も元気そうでしたし。」
実際、受け持った三組の生徒は登校してきてから程良く盛り上がり、話を聞く時はきちんと俺の方を向いて、最後の一年間を楽しく・しっかりと過ごそうという雰囲気だった。下校後も、様々な生徒から「今年もよろしくお願いします!」なんて言われたものだ。
「そうでしたね。登校してきた生徒、は。」
主任の言葉がチクリと刺さった。他のスタッフもこちらを見る。
「…分かっています。雅と光佑は欠席。昼過ぎに連絡を取って、七時に家庭訪問すると約束しました。」
「そうですか、よろしくね。彼らも今年で卒業するんだから、一年生の時のことをよく覚えているのなら、彼らをきちんと更生させてもらいたいわ。お願いします。」
そして会議は終了し、残った雑用を素早く片付けて家庭訪問へ向かおうとした時、一組担任兼学年副主任の相本先生が声を掛けてくれた。一見すると強面で身構えそうなものだが、実は誰よりも生徒と同僚思いの有難い先生だと思っている。今年一緒に学年を組めて、正直ほっとした。
「主任も、なんだかんだで彼らが心配なんだよ。三年生を一年の時からずっと持ち上がりで見てきたのは、主任と晴野先生だ。晴野先生の良さは熱く物事に正面から向き合えるところだと俺は思うよ。頑張って、お疲れ様!」
「はい、行ってきます!ありがとうございました、お先に失礼します!」
「先生、大丈夫っすか?」
光佑の言葉で我に返った。みかんの皮はとうに全て剥き終わり、みかんの表面をずっと撫で続けていたので、白い皮の名残がテーブルに散らばってしまった。
「あぁ、すまん!テーブル汚しちゃって。考え事してたもんだから…。」
「気にしなくていいっすよ、これくらい。」
「晴野っち、主任に何か言われたんでしょー!」
こういう時の雅は謎の鋭さを発揮すると覚えたのは中二の終わり頃だったっけ。この子は純真爛漫に見えて、本質を見抜く力はずば抜けていると一年の時に思ったものだ。
「全く、雅には何もかもお見通しって感じだな。まぁ、言ってしまえばそうなんだが、特に怒られたとかそういうものではないよ、二人を心配していたからね。」
言葉を返しながらみかんをひと口。絶妙な甘酸っぱさが広がり、張り詰めていた糸が完全に緩んだような心地になった。
「まぁ、俺は心配要らないっすよ。相変わらず親父は長距離の運転手でいつ帰ってくるか分からないですけど、雅のばーさんに世話になってますから。」
光佑は、素直な余りどうにも不器用な印象が二年間拭えないままだ。思っていることを上手に表現できない、といったところか。不器用で素直な光佑と、器用で素直な雅。この二人は申し送りの時点で家族ぐるみで仲が良い、そしていいコンビだと小学校から情報が来ていた。
「俺もだいじょーぶ!ばーちゃんちょっと具合悪いみたいで、ヨガ行きながら安静にしてる。だからその分、店番やりながら光佑に勉強教えてるんだよん!」
雅はキッチン脇に立てかけられた光佑の鞄を勝手に漁り、理科のワークを開いて見せてくれた。
「ほら、俺が教えたところほぼ完ペキ!俺は厳しいから部分点はあげないんだ。」
「実際、雅の教え方マジで上手いんすよ。なんつーか、自然に頭に入ってくる感じで。」
ぺらぺらとページを捲る。学校で進めている授業より遥かに進捗が早い。
「大したもんだ。やっぱり煙草吸いながらだと捗るのか?」
雅の「うん!」という返事に、光佑の「い、いや…」より先はかき消されてしまった。光佑が雅の頭を小突く。
「煙草と酒はいい加減止めろ。あと五年ちょいは我慢だ。」
へーい、と返事こそしたが、きっとこの二人は止めないだろう。
「にしてもこんな勉強進んでるんなら、学校来て他の皆にも教えてもらいたいもんだな。まだ、来る気にはならないか?」
二人の表情が少し曇った。二人とも、何と返事すればよいか分からない、といったようにしか見えない。
「あぁ、すまんな。無理強いするつもりは無い。寧ろ、光佑と雅が学校行きてー!って言ってくれるくらい、俺も頑張らないとな。」
曇った表情のまま、雅は俯いてしまった。
「晴野っち、一年の体育祭のこと、まだ怒られてるの…?」
緩んだ糸が瞬時にビンッ、と張った。そして、選ぶ言葉を間違えた。
「いや、そうではないんだが、正直、あの日のこと、俺はお前らを信じられない。他の生徒のこともそうだ。あの日の真相は…」
次の瞬間、雅が瞬時にキッチンに手を伸ばした。洗い場には料理をした痕跡があり、調理器具が残されている。そして光佑の「やべっ!」という叫び。次の瞬間、雅は包丁を素早く取り上げて自らの脚の付け根に向けて振り下ろそうとした。俺は、反応できなかった。
「馬鹿野郎!!!」
光佑が雅を殴り飛ばし、あわや寸前のところで惨事は免れた。いや、目の前で幼馴染が幼馴染に暴力を振るったのは、惨事を免れたと言っていいものなのだろうか。
「いってぇ、ありがとう光佑。ごめんね、また迷惑かけちった。晴野っちも、ごめんなさい。」
つぶらな瞳には、もう光は見えなかった。
「すんません、今日はもう帰ってもらっていいですか。あの事件は、俺がブチ切れてモノに当たって、注意した奴ぶん殴ったって話でまとまりましたよね。まだ雅は、何でか知らないっすけど責任感じてるんですよ。要らんことなのに。こいつは俺が暫く面倒見ますから。」
教え子に言われ、その通りに家を後にしてしまい、車で家路を走る自分が情けなかった。あの事件に触れるのはタブーだと主任から再三に言われ続けていたはずだった。楽しそうな二人を見ていて、気持ちが緩んでいた自覚は確かにある。
俺が光佑の家を去ろうとした時に、雅が「迷惑かけてごめん、ごめんね…」と虚ろに呟き続ける姿が頭に焼き付いて離れず、眠れない夜を過ごした。
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