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「支援される」ことの息苦しさ

「よかったら仕事の相談に詳しい人がいますけど、相談していきませんか?」
「や、いいよ(苦笑)。前もそれで『ハローワーク行ってください』で終わりだったしね。」
生活困窮者のための炊き出しで、色んな人を支援につなげようとする中で、聞かれた言葉である。
スタッフの札を下げた私達が声をかけにいく素振りを見せるだけで首と手を振って拒絶の意を示す人もいる。

幾度となく「支援」されることに慣れている人たちの一部は、「支援」の偽善性や安っぽさに呆れているのかもしれない。

私は、人生で最も詰んだ時、「支援」というものに初めて嫌悪を覚えた。
「いつでも相談してください」「心配しています」という形骸化した支援者の言葉に苛立った。

話はよく聞いてくれる。生育歴から現病歴まで。根掘り葉掘り聞かれた。今困っているのはお金がないことと夜の調子の悪さ。
「貯金が○円あるなら生活保護じゃないね。」「グループホームはあなたくらい症状が重いと病気を持つ他の人と住むのはおすすめできないね。」「夜辛い時にかけられる電話番号紹介しておくね。(※いのちの電話とかなかなか繋がらないやつだし、ブラウザで死にたいと検索したことあるなら誰でも知ってる。)」
たっくさん、嫌な思い出も含めて話した見返りがこれである。こんなに話しても、何も得られることはなかった。

仕事をクビになった。精神障害があって、通院もしなきゃいけないし、そんな配慮をしてくれるところなどなかなか見つからない。貯金を削って暮らしているから不安だ。
「どうすればいいですか…。」「仕事を探したいならハローワーク行ってみたら。」
ハローワークの存在なんて知ってる。障害をもちながら働ける働き口なんかなかなかないから困ってるんだって。貯金がなくなっていく不安はどうしてくれるのか?私はこのまま貯金が尽きて社会に見殺しにされるのだろうか。ここでも私は、追い払われてしまった。

夜の仕事の日払いの給料でその日暮らしをしている。家賃の引き落としがあったらマイナス残高になるだろう。
仕事で酔っ払って記憶が飛ぶ。避妊はできていたのかよくわからない。
民間の女性支援団体が話を聞いてくれる。
「なかなかね、お金のことがあるから辞めろとは言えないけど…。でもこんなことの繰り返しじゃ大変じゃない?」「お金のことは役所の人に相談してみて。この電話番号にかけられるかな?」
よくある、たらい回し。どこかに相談すると、どこかに相談するように言われる。電話かける気力なんてない。たらい回されて最終的に行き着くのは役所の福祉課。「生活保護の課」だ。そして、生活保護の対象じゃないとなると放り出され、たらい回された苦労も水の泡となる。

私が眺めてきたり経験したりしたケースはこんな感じである。
少ない貯金が削られていく不安、一人では動く気力もなく、誰もその日生き延びる食料やお金を簡単にくれるわけではない。完全な行き詰まり。

支援者は手取り足取り何でもやってくれるわけではない。
支援者にサービスを紹介してもらっても、自分で電話する気力や、知的能力がないと、何にも繋がらずに終わってしまう。
「助けてあげるよ」という甘い言葉をかけながら、最終的にほっぽりだされるのなら、最初から声をかけないでほっといてほしいのが本音。

そして、「助けてあげるよ」と声をかけてくる支援者は、「自分には何かできることがある」「自分の声掛けが相手を救う」と思って無自覚のうちに「強者ポジション」を陣取っていることを、声をかけられた側は敏感に察知する。
そして、いつもいつもそうして自分が強制的に「弱者ポジション」におかれることに、無力化され、自分を恥じ、絶望を覚える。

「支援」というのは非常に無力であることを、自覚しなければいけない。
「支援(安易な声掛け)」は「支援(相手の生活の向上)」に結びつかないかもしれない。
それでも支援を始めることは無責任であり、無責任であることを承知し覚悟しながら、本当の支援になることを目指して飛び込んでいくしかないのかもしれない。

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