「支援される」ことの息苦しさ
「よかったら仕事の相談に詳しい人がいますけど、相談していきませんか?」
「や、いいよ(苦笑)。前もそれで『ハローワーク行ってください』で終わりだったしね。」
生活困窮者のための炊き出しで、色んな人を支援につなげようとする中で、聞かれた言葉である。
スタッフの札を下げた私達が声をかけにいく素振りを見せるだけで首と手を振って拒絶の意を示す人もいる。
幾度となく「支援」されることに慣れている人たちの一部は、「支援」の偽善性や安っぽさに呆れているのかもしれない。
私は、人生で最も詰んだ時、「支援」というものに初めて嫌悪を覚えた。
「いつでも相談してください」「心配しています」という形骸化した支援者の言葉に苛立った。
私が眺めてきたり経験したりしたケースはこんな感じである。
少ない貯金が削られていく不安、一人では動く気力もなく、誰もその日生き延びる食料やお金を簡単にくれるわけではない。完全な行き詰まり。
支援者は手取り足取り何でもやってくれるわけではない。
支援者にサービスを紹介してもらっても、自分で電話する気力や、知的能力がないと、何にも繋がらずに終わってしまう。
「助けてあげるよ」という甘い言葉をかけながら、最終的にほっぽりだされるのなら、最初から声をかけないでほっといてほしいのが本音。
そして、「助けてあげるよ」と声をかけてくる支援者は、「自分には何かできることがある」「自分の声掛けが相手を救う」と思って無自覚のうちに「強者ポジション」を陣取っていることを、声をかけられた側は敏感に察知する。
そして、いつもいつもそうして自分が強制的に「弱者ポジション」におかれることに、無力化され、自分を恥じ、絶望を覚える。
「支援」というのは非常に無力であることを、自覚しなければいけない。
「支援(安易な声掛け)」は「支援(相手の生活の向上)」に結びつかないかもしれない。
それでも支援を始めることは無責任であり、無責任であることを承知し覚悟しながら、本当の支援になることを目指して飛び込んでいくしかないのかもしれない。
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