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彼は誰時

そこに誰かいるの。あなたは誰なの。
そう問いかけられたとき、あなたならどんなふうに応えるだろう。
近づいて、穏やかに微笑みかけるだろうか。
やさしく手に触れる人だって、いるかもしれない。

私はずっと、必死に言葉ばかりを探していた。
私はここにいるよ。こんなふうに生きているよ。
どんなふうに言葉にすれば、それを伝えることができるのか。
めいっぱいの言葉をたぐり寄せて、選んで、重ねていく。
そこにいるかもしれないあなたに、いつか届くように。

*

小学生の頃から、みんなが泣いたり怒ったりできるのがふしぎだった。
楽しいときに誰かと一緒に笑うことはできる。
でも、悲しいとか、寂しいとか、懐かしいとか。
私だけが感じているかもしれない気持ちを、素直に表すことがどうしてもできなかった。

いつもやり過ごしていると、だんだんとその場では気付かなくなっていく。
だから一人きりになったとき、心に立つかすかな波の音に、私はよく耳を澄ましてみた。
ようやく聴こえたその音が消えないように、何度も何度も話しかける。
私はいま、悲しいの。寂しいの。どんなふうに感じているの。
問いかけ続けていると、少しづつその輪郭が見えてくる。
そしてそれはいつも、言葉という形で私の前に現れてくれた。

こんなふうに私の感情は、いつだって言葉と結びついていた。
言葉にしなければ、自分の感情が心の中だけで消えてしまう。
誰にも伝わることがないままに、無かったことになってしまう気がした。

だから言葉にすることは、私にとって生きることと直結していた。
言葉が好き、というよりも、言葉しか生きる術を知らなかったのだ。
なのに社会の渦にのまれ、その術すら忘れそうになっている自分に気付く。
それが私は怖かった。そうして私は会社をやめた。
言葉は、日々を流れていく私が掴むことのできるただ一つの「藁」だった。

何を言葉にしたいのか。どんな言葉が欲しいのか。
私はずっと、この答えを探し続けている。
自分に言葉しか術がないことは分かった。
けれど、肝心な自分自身のことを、私はまだよく知らないのだ。
今はただ、一瞬一瞬に芽生える感情を見逃さないこと。
萎れないように水をやり、ていねいに言葉にすること。
ゆっくりと育て、見守ることしか、私にはできない。

このあいだ、「かわたれどき」という言葉に出会った。
「彼は誰時」。
まだほんのり暗い、夜明け前。
彼は誰。そこにいるのは、だれ。
薄紫色の空に隠れた、あなたの顔はまだ見えない。
こんな美しい言葉を付けた人が、はるか遠い昔にいたらしい。
そんなこの国で、私は今日を生きている。

校正者になろうと思う。
一生の仕事になるかは分からない。
自分自身のことを知り、書きたい言葉が分かる日がくるかもしれない。
いつか言葉に絶望して、また別の仕事を選ぶかもしれない。
それでも。私がいま掴んでいる「藁」は、言葉そのものなのだ。

彼は誰なのか。どんな顔をしているのか。
まだ薄暗くて、その表情は見えてこない。
けれど今は、まだはっきりしなくてもいいやと思う。
薄紫が橙に変わっていくグラデーションも、曖昧で美しい。

彼は誰時。
今はこの時間の心地よさに、ゆらゆらと漂っている。



健やかに文章を綴るためにアイスクリームを買いたいです。読んでくれて本当にありがとう。