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文字離れが加速した先にある、日本語離れのはなし。

今から、note読者には縁遠い(かもしれない)話をしよう。

「文字離れ」である。

もう「活字離れ」は古いのかもしれない

私が小さい頃、巷では「活字離れ」が騒がれていた。
若いものは漫画ばかり読み、いわゆる読書をしないというものだ。

あるいはゲームやアニメ、テレビばかりで想像力が欠如している。なんていう声まであった。

注意しなければならないのは、当時は電子書籍なんてなかったから読書といえば「紙媒体の本を読まない」ということを指していたということだ。

今でも、変わらず読書離れは嘆かれているが、その場合はもう「活字」とは言えなくなっている。
便利な世の中になって、電子化が進んでも、読書自体をしなくなっている。この現象は「活字」ではなく、「読書離れ」なのだ。

2019年の国立青少年教育振興機構の調査によれば、全年代を合わせ、1カ月に本を全く読まないとした人は49.8%に上ったという。これは、2013年にまとめた同様の調査の28.1%から、20%も増加している。

問題なのは、全世代の半数近くが本を読んでいないということである。

スマホ全盛期は「文字離れ」につながっているのか?

冒頭で「文字離れ」と指摘したことに疑念を抱く人はきっと見出しのような問いを持つのではないだろうか。

読書はしなくても、文字は追いかけているではないかという声は容易に想像がつく。

世はIT時代だ。スマホを持っていればSNSを利用しているだろうし、今は漫画だって大人気だ。
昔よりも「検索力」のある人間は増えたかもしれない。

しかし、検索力があり、自動変換機能が高まるからこそ、語彙力の低下が気になってくるとも感じている。

2018年の記事だが、この時点で語彙力の低下を感じさせる。
「エモい」という言葉に関して、どのような意義か、どのような用途なのか説明を求められた場合、国語辞典のように言語化できる人はどれくらいいるのだろうか。
実は、私はこの「エモい」という言葉を大学の師に最近の流行語として伝えたことがあるが、かなり苦労したことを覚えている。感傷的とも、ノスタルジーとも違うのかもしれないし、どちらも含んでいるのかもしれない。

もともと言語は変化するものだから、日本語だって進化していってもいいはずだ。そういった論調もよく耳にする。
しかし、若者が進化を超えた語彙であるか、原義とはかけ離れた意味で使った結果日本語離れになってしまうのではないかと危惧している。

この記事は見出しからすれば「スタンプ離れ」であり、直接関係ないように見えるのかもしれない。しかし、記事の中ではこのような発言が見られている。

「私もLINEは文字を送るだけで、スタンプは使いませんね。愚痴を言いたいときも、友達に重くならないように『まじしんど』『ほんまむり』ぐらい(笑い)。(中略)
出典:マネーポスト『り、じわ、すこ… 女子大生のLINEが「スタンプ離れ」で平仮名ばかりに』

「文面に残したくない」ということも要因にあるようだが、このように崩れた日本語のみを用いているようでは、きちんとした文章が書けるのか、あるいは正しい言葉を用いる事ができるのか、行く末が不安になるのだ。

このようなことを書く私もまだ若者の部類であるし、友人とのチャットではかなり崩れた日本語を用いているが、「軸」が崩れないようにnoteや論文、レポートを定期的に執筆している。言語化ができなくなることは、日本語を失うことと同義だと感じているからだ。

日本語離れは若者だけの話ではない。

さて、散々若者に警鐘を鳴らしたが、この日本語の変質の問題は若者だけの問題ではないことにも気づいてほしい。

最近は「結論から話す」ことに重点が置かれつつある。
営業マンが売れるためには、あるいはできるビジネスマンであるためには、という問いがあればロジカル・シンキングだとか、結論から話すことだ。とかそういった記事を見かけることだろう。

事実、それはとても大事なことだ。相手にわかりやすく伝えるためには、インパクトを残さなければならないだろう。
だからまず結論を話し、なぜそう思うのか説明する。プレゼンテーションの作法と同じだ。稼ぐ話術の本だってそう言っているではないか。

これが正しいビジネスマンの認識方法だろう。
もちろんそれは正しいし、そうあるべきだろう。しかし、根本的な部分では外れている。

私が大学時代、あるいは留学時代にプレゼンテーションするときは上に掲げたようなプレゼンテーションを行ったし、それが多くの人の理解を得られた。
社会人になっても、プレゼンテーションを代表して行い、OJTの先輩にも同僚にも模範的だと言われたこともある。
そんな模範的なプレゼンテーションをする際の私は、残念ながら、自分で「自分らしくない」と感じ続けている。
正直なことを伝えるならば、自分が英語で作り上げたプレゼンテーションを日本語に変換して伝えているからこそ、母国語の感覚がない。

しかし、それがわかりやすく、よく出来たと感じられるのは「王道のプレゼンテーション」がもともとアメリカから来たものを輸入したものだからだろう。

オンライン化が進み、ZOOM会議となれば「会議は30分以内に」というような効率化が図られるようになったが、これもまた同じだ。
日本人の話術に合うものもあれば、合わないものもある。

もともと、日本語という言語は結論を頭に言うように出来ていないのだから。
今のプレゼンテーションは、結局のところ正解パターンを自分に当てはめて行っているに過ぎず、本質理解にまでたどりける人はごく少数なのかもしれない。
その結果、理想の方法を追求すればするほど、自分の思考回路は日本語的というよりも、英語的な思考で考えることになる。
それが果たして本来の日本語と言えるのかはわからない。結果としては「日本語離れ」になってしまうと感じている。

変わりつつある日本語。守らねばならない「軸」

「最近の若者の流行語はわからない」

いつの時代も、言われてきたことだろう。

外来語由来のものや、日本語を短縮化させたもの。
これらは、日本人の年配世代だけではなく、外国人の日本語学習者にも混乱を招いている。
もちろん、これらの現象は外国でも同様に起きているし、こういった「言語崩れ」は、ネットスラングなども含めればおびただしい数になるだろう。

そういった日本語を一つ一つ嘆くのではなく、本来大切なのは、「正しい日本語にも触れているか否か」ということだろう。

どんなに崩れていても、正しい日本語を使用することができたり、上質な日本語を理解することができること。
あるいは、「使い方をわきまえること」ことが重要だろう。
つまり、プレゼンテーションの話し方で日常生活も話す人がいたら鬱陶しいし、ひたすら流行語のみで会話するのであれば非常に学が浅い。

今回伝えたかったことは、そういったところにある。

昨今見かけるのは「語彙力」という表現だ。ある事象に対し感動しすぎて語彙力が消失した場合に見られる。

もともと、日本語は形容詞も多く、外国人に取って学びづらい言語であるはずだと認識していた。小さなニュアンスの違いでも、その感情の機微を感じ取れる。それが日本語の良さであり、日本語の曖昧さ、あるいは日本人の性格を表現していると思っていた。
その日本人自体が語彙力を放棄しているようでは、日本人の日本語離れなのだと、感じざるを得ない。

言語化する習慣を持っているのか。
正しい日本語を認識できるのか。

間違った日本語を使うことを許さないわけではない。なぜそう思うのか、その根拠がしっかりとしていれば(あくまでも日本語で思考している人がほとんどだろうし)、言語化ができるはずだ。その言語化がなくなった際に、日本語離れは加速するだろう。

こうしてnoteを読む人々は様々な文体の様々な日本語に触れているからこそ、新たな気づきもあるだろう。ある意味、noteでしかできない経験だと思う。
表現することを止めてはいけない。

そう思うからこそ、今日もnoteに思いを綴っている。

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