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芽生えよ、教養。捕らえよ、時代。

社会人になりました、hanaです。
ものの数日で、いかに自分が理想主義者であったかを知りました。

社会人って…つまらない人が多いのですね。
毎日死んだような顔で電車に乗るサラリーマン。
ただスマホをいじるだけの昼休みの人さえいる。
目の前の「社会」から隔絶されないとやっていけない、プライベート。

それは本当に学生生活を卒業してやることなのか、ものすごく疑問です。

インプットとアウトプットって言うけれど…

そもそも、社会人になるとインプットもアウトプットもない人が多すぎます。

知識はその日その日の積み重ねであることは認めます。
ただ、毎日、日本経済新聞だけを追いかけなければならないのは、あまりにも無知蒙昧というかなんというか…。
ビジネスのためなのはわかりますが、本来は二紙でも三紙でも、比較する度量がほしいのに…とぼやきたくなります。

さらには、時事問題には強くなっても、人文学的なことや社会学的な知見にまでたどり着く人々は早々にいません。
つまり、「教養」ではなく、時事に食らいつくという程度に留まってしまう人があまりにも多すぎるのです。
いっちょまえに安倍政権の批判はするくせに、それぞれの批判の要素として用いる言葉の本来の意味までは理解しておらず、とりあえずネットで見かける、あるいは何かで知り得た情報をひたすらに繰り返す人をオンライン・オフライン問わず何人も見かけました。

もちろん、本当に理解した上で自分の意見を述べている人もいるので、政権批判をその理解度の指標としているわけではありません。
しかし、結局このインプットとやらに主体性はひとかけらもないのです。

彼らは、モンテスキューは読んだのでしょうか。
マルクス主義が…とすぐいう経済人は本当にマルクスの思想を理解しているのでしょうか。
ドラッカーは、プラトンは、あるいは福沢諭吉は読んだのでしょうか…。
反射神経で時事に追いついたところで、その教養としての引き出しが少なければ本来の時事の論評ができないはずなのです。
受験勉強で学ぶ知識というのは、本来受験のためでなくて、今この時期を生きていればなんとなくでも活かすことが出来るはずなのです。
そういうことにもっと早く気付けていれば、私は高校時代を楽しく生きられたのに、と今ものすごく悔しいです。

数と、事実ではみつけられない「本質」よ、どこにいった

昨今の風潮をシャワーを浴びるようにしりました。
大学院時代に、先生方が議論していた内容は、もうビジネスでは通用しない次元に到達していました。
つまり、「データですべて理解できるのか」論争です。
歴史を研究する人からすれば、「世論調査」で出てくる人は抽出された人々であるわけだし、私達がこういう決断に至ったのには血のにじむような活動が…というわけです。
しかし計量分析を行う人々からすれば、データで現れていることでこれまで議論されてきた説を実証することができたのだから、計量は重大な意義をもたらす、といいます。他方、心理であったり彼らの思想はデータでまだまだ推し量れない…というのも事実でした。
大学院時代は、この議論をうまく検討しながら、双方をうまく使うことで中身のある研究にしていくよう、努力しているつもりでした。

しかし、社会に出れば、数字はどこにあるのか、結論はどこにあるのか…というfactベースでしかありません。なぜファクトフルネスがベストセラーなのか、こうして理解することなったのです。

データだ、ロジカルだ、というのも申し分ないと思います。
しかし、データで推し量れない部分というのは、すなわちAIの範疇を超えてきたりもする、人間の予想外な部分です。こういったところに人々は人間のイレギュラーを見つけ、このイレギュラーの集合体であるはずの個人ということを理解するはずなのです。
社会は個人の集合体のはずです。もちろん規則で押し込められていたとしても、どこまでいっても、個人は個人です。それ以上でもそれ以下でもありません。

人間の本質を見失ってまで、数に固執してしまうのも、本当に価値のあるものなのかなんてわかりません。

知識を、脳に蓄えよう

コロナの流行によって突如、カミュの『ペスト』を読んだ!という人をみかけます。
そして、そんな人々がいきなりコロナのことを語りだすのも見かけました。
素晴らしい、アウトプットのいい機会とも思います。
でも本当にそうでしょうか?

本来はコロナの事象を聞いた時点でペストを引用するくらいの度量がほしいですし、それが本来の「知識人」であるはずだったと思うのです。

専門知化される必要はなくとも、それらの教養を知っている、という段階に行ける人がどれだけいるのでしょうか。
このような知識人が、この社会において少ないのではないか、とものすごく不安になる日々です。

もし新卒を含め、どんな身分であれこの文章を全文読んだ人がいればしっかりと胸に手を当て、振り返ってみてほしいと思います。

自分自身は、ビジネスマン(社会人)であるだけでなく、知識人であろうとしているのか、と。
あるいは、学生でありながら、知識を本当に身につけた人間となる努力をしているのか、と。
そうでなければ、「時代の潮流に追いつく」に永遠にとどまってしまうのではないでしょうか。

一つの時代を作るのが若者であるとするのならば、若者自身が啓蒙されなければ、未来なんて決して良くはならない。
わたしは、強くそう思うのです。

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