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#映画感想文『花束みたいな恋をした』(2021)

土井裕泰監督、坂元裕二脚本の映画『花束みたいな恋をした』を遅ればせながら、上映が終わる前の滑り込みで、ようやっと映画館で観てきた。

主演は菅田将暉と有村架純で、若い男女の恋を描いた映画であることは予告編を見て知っていたのが、関係ない映画だと思っていた。

今をときめく菅田将暉と有村架純が主演であるため、おしゃれ恋愛胸キュンキラキラムービーだろうと偏見いっぱいで、スルーする予定であった。

公開から時が経過するにつれ、坂元裕二が脚本であることを知る。

あのへそ曲がりな坂元裕二が脚本なら、おそらく、おしゃれ恋愛胸キュンキラキラムービーではなかろう。

そして、2021年4月期のドラマである『大豆田とわ子と三人の元夫』にドハマりしていることもあり、行かねばならぬ、という心理になり、行ってきた次第である。

さて、話を映画に戻そう。

この主演の二人がキャスティングされた経緯までは知らないのだが、美男美女であるはずの二人がとてつもなく普通の二十代に見えてくるので不思議だった。

モード感やファッション誌的な美しさの画を撮ろうという意図はまったくなく、等身大の若者が、そこにいるように感じられる。

1990年代半ばに生まれた2020年現在の若者ではなく、普遍的な若者二人がいるような気がした。

そして、『花束みたいな恋をした』という映画のタイトルは過去形である。別れることを観客は、観る前から知っている。その予感とともに、物語は進んでいく。

序盤の居酒屋のシーンで、すでに苦しいではないか。二人は、自分の片割れのような人に出会い、互いを運命の人だと思っている。

本稿では、菅田将暉を麦くん、有村架純を絹ちゃんと書いていく。

以下、雑感

・わたしも、クーリンチェ、見逃した

・カップルがだめな感じになると飼い猫のケアを怠ってしまうのだろうか

・京王線沿線ユーザーは大興奮

・多摩川近辺住民も大興奮

・本棚で相手を値踏みするってあるあるで、そこをクリアできるってすごい

・めいさんとは、雨宮まみだろうか

・『大豆田とわ子』に出演しているオダギリジョーと瀧内公美がいて、観に来てよかったぜ、と改めて思う

・「SMAPが解散しなかったら、私たちも別れなかったかもしれない」と考えたのは絹ちゃんだけでなく、別れたカップルの500組ぐらいは似たようなことを言ったかもしれない

(SMAP解散は、SMAPがいない世界を生きなければならないことを意味しており、それがつらかった)

この映画は、サブカル好きが社会人になることによって、何か(青春)を失う、といった文脈で語られることが多かった。労働といかに折り合いをつけていくかは、賃労働で働く人々、全員の課題でもある。

麦くんと絹ちゃんは対立してしまったように見えて、実は双生児なのだ。

「仕事は遊びじゃないよ。やりたいことを仕事にするなんて、なめていると思う」

そう憤る麦くんは、やりたいこと(イラストレーターの仕事)で、やりがい搾取され、安い単価で買い叩かれ、嫌な思いをさんざんしている。

「じゃあ、いらすとや使うんで大丈夫です。お疲れさまです」

(これは2021年に使われた日本語のなかで最も嫌な日本語だと断言できる。あと半年あるが、これを超えるのはなかなか難しいだろう)

だから、生活していくこと、食べていくこと、働くことの楽しさは、文化的な文脈から外れても仕方がない、と麦くんは思っている。

そんな彼氏に対して、絹ちゃんは、「嫌なことはやりたくない。好きなことをして生活していきたい」と真っ向から反論する。

もしかしたら、絹ちゃんのことを現実を知らない甘っちょろい女の子だと嘲った人もいるやもしれない。(女は現実をわかっていない、とミソジニー丸出しで)

しかし、わたしは絹ちゃんが「私は私(自分自身)の感受性を守りたい」と叫んでいるように見えた。

わたしは絹ちゃんの訴えがわかる。「私が何も感じなくなって、生活していくだけなら、私が私として生きる意味がなくなってしまう」という絶望的な状況を彼女は全力で回避しようとしている。

(茨木のり子先生だって、自分の感受性ぐらい自分で守れ、と仰っていたではないか)

双子のように、同じものが大好きだったはずの彼氏ですら、わかってくれなくなる容赦のない現実は、寒々しい。

しかし、麦くんの言いたいこともわかるのだ。会社(あるいは職場や社会)は、あなたがあなたらしくいることを全然望んでいない。職場では、すべての人に役割があり、すべての人が部品であり、歯車として動いてもらう必要がある。没個性というよりは、職場では業務に最適化されたあなたが望まれている。

この映画を観ているわたしは、残念ながら二人の心情が痛いぐらいにわかる。どちらも自分なのだ。

必死に働くわたしは麦くんで、フィクションにうっとりしているわたしは絹ちゃんで、それは別人ではなくて、一人の人物の中に同居し得る。

絹ちゃんは、余韻に浸りたい人で、スキンシップも多めがいい、と正直に話していたではないか。

舞台鑑賞後のうれしそうな絹ちゃんは、芸術や文化を消費しているのではなくて、ともに生きていくものだと考えている。彼女が事務職からイベント会社に転職(それが派遣だとしても)するのは何ら不思議なことはない。そして、派遣社員だから、今のアパートの家賃は払えない、と正直に話してもいる。

(一番の疑問は、絹ちゃんは、文化的なものに触れるのは好きだが、自ら創作はしなかったことである。学生時代ラーメンの食べ歩きブログはやっていたが、何かを作ることはしていなかった。それをさせなかったのは、麦くんと対比させるためなのだろうか)

麦くんは、イラストが描ける人で、才能もある人だったけれど、食べていけず、屈辱も味わった。だからこそ、評価が必要であることが嫌になるぐらいわかっている。踏みつけられてきた分、他者からの評価を渇望していたのかもしれない。

麦くんは物流会社の営業職で中部地域の新規開拓営業を任されたと喜び、社用パソコンを自宅にも持ち帰り残業したり、自分と同い年の青年がやらかした事件の後始末をさせられたり、どんどん仕事を任されていく。その様子はうれしそうで、どこかつらそうでもある。

一方、絹ちゃんの仕事はそれほどきつくない。というよりは、そもそも絹ちゃんは職場に貢献しようとか実績を残そうとか考えていないので、定時に帰ることができる。否が応にも仕事が雪だるま式に増えていく仕事というのは、本人が増やしている、という側面があることも否定できない。

仕事に向き合っていれば、ここがダメ、あそこが足りない、あの資料は修正したほうがいい、など自然と業務量は増えていく。

しょせん、仕事なんだから、給料がもらえて、クビにならない程度に働けばいい、という人とそうでない人の「仕事」は、同じ仕事でも全然違ってくる。

正直にいうと、どちらの働き方も正しい。経営者を除き、わたしたちは単なる労働者に過ぎないのだから。

(しかしながら、わたしが一緒に働きたいのは前者であり、後者のような人は絞め殺したくなるぐらい嫌悪している。他人を許せないこと、許容できないこと、それはわたし自身が抱えている問題である)

わたし自身、働くことに精一杯で、文化的なものに触れることができなかった期間がある。おそらく、十年間ぐらいはテレビとラジオぐらいにしか接しておらず、ただただ時間が過ぎていった。その時間は、決してゆるやかではない。異様に速く、記憶がない時期もある。

Perfumeの『Spring of Life』の歌詞に深く共感していた時期でもある。

スケジュールは埋まっていても思い出は空白のままで

そして、仕事にSpending all my timeという状態であった。

働いて寝るだけの繰り返しは、自分のことは何もできない。自分に食事をさせて、風呂に入れてやって、という感じである。

生活を安定させて、何かを作ろう、たくさん本を読んで勉強しよう、と思っていたのに忙殺され、年を取っていく。

体力が持たない。何も集中できない。休みの日も仕事のことを考え、休めない。掃除と洗濯をするだけで、やけに時間がかかり、一日が終わってしまう。

現実(仕事)は容赦ない。上司のパワハラもあれば、同僚のサボタージュ、日々の出来事で感情が消耗してしまい、感情を揺さぶるような物語など必要としなくなっていく。

簡単な切り替えスイッチなどない。すでに人間(世間)の中の登場人物として活躍しているのだから、かわいい女優さんも、イケメン俳優なども、必要としなくなる。

だから、麦くんの名言「パズドラぐらいしかやる気がしない(できない)」という心情はよくわかる。ドストエフスキーとか読めない。

(わたし自身、大学卒業後、実家を出るタイミングで、何千冊とあった文庫本と漫画の単行本を処分して、500冊ぐらいに絞った。あるとき、それも邪魔くさくなり、50冊ぐらいに絞った。今は少し増えて、100冊ぐらいになっているが、基本的に買ったら売る、売ったら買う、というようにしている。今、思えば、社会に適応させるため、自分を二度三度殺す必要があったのかもしれない)

長々と書いてしまったが、この映画の肝は、労働ではなく、恋愛である。

麦くんは別れ際、繰り返される日常、ときめきのない生活も悪くない、仲が良くない夫婦、ディスコミュニケーション状態だってありなんじゃないか、と無茶なことを言い出す。

絹ちゃんは、パートナーに期待せずに生きるのは嫌だと、彼の提案を断る。

そう、何かをあきらめ、期待せずに生きることほどきついことはない。

絹ちゃんは、大事なところで、自分をちゃんと守れる。

わたしたちは、かすかでも、ぼんやりとしていても、希望が必要なのだ。

小さなすれ違いが積み重なり、それを修復しようという気力もない。というより、欠損していると感じる部分がそれぞれに違うので、修復を試みることすらできないというのが、カップルの実際なのかもしれない。

ただ、この二人の文化的バックボーン(サブカル趣味?)を支えているのは、経済的にも精神的にも余力のある親であったことを忘れてはならない。

東京近郊の一戸建てに住める広告代理店勤務の夫婦のもとに生まれた絹ちゃんと、新潟県長岡市の花火大会に寄付する程度にはお金に困っていない父親のいる麦くん。実家暮らしと仕送りのある四年制の大学に通う二人、彼らの余裕とは、親の経済的余裕でもある。

二人は同レベルの文化資本を獲得しているからこそ、恋に落ちることができた。それは、大学生ならではの恋愛といえるかもしれない。大学生とは、学力(偏差値)だけで選別されて、そこにいるのではない。多くは親の資本による結果なのだ。だから、好きな作家とか好きな音楽とか、ある意味ではどうでもいい差異が気になる。そんなことを気にして生きられる余裕がある。恋愛を享受できることは、経済的な余裕による結果に過ぎない。

二人は30分の帰り道のためにカフェで、テイクアウトでコーヒーを買う。500円ぐらいかかる。それをさほど考えず、買うことができる。大した金額ではないが、お互いにストレスなく、楽しめる、というのは、二人が貧困からは遠く育ったことを意味している。

(わたしだったら、缶コーヒーが関の山で、80円の自動販売機を探してしまう。いや、多分買わない。家でコーヒーを作って飲むだろう)

今、生活に苦しんでいる現役大学生が見たら、この二人は優雅に見えて、鼻白む可能性だってある。

恋愛とは贅沢品であるが、ないよりは、あったほうがいい。

そして、坂元裕二は社会や世間から目を背けない。ファンタジーな世界であっても、ファンタジーには逃げ込まない。その誠実さがある。

この作品を観て、思い出した人物が二人いる。

大根仁と佐久間宣行である。

サブカル的な背景(この表現は適切ではないのだが、この言葉しか思いつかない)を持つ大根仁は、本人はオープンで社会性もあるように見えるし、きっとすごく楽しい人で、友達も多そうだ。ただ、彼の作品に登場する人物は、思いのほか他者との断絶がある。自分の世界に閉じこもることも是とされ、否定はされないように見える。そのあたりの距離感の違いが興味深い。

佐久間宣行は、ありとあらゆるエンタメを貪欲に摂取し、それを楽しみ、それをラジオで話したり、ツイートしたりして、楽しそうに仕事をしているエンタメ業界の代表格である。佐久間さんもオープンマインドな人で、企画を実行し、周囲からも信頼されていると思う。ただ、佐久間さんは、かなり現実主義者でもあり、エンタメを楽しむことも仕事のうちだ、と思っているように見える。

坂元裕二は一見内向的だが他者のとの関係にはオープンに見える。露出も多くない作家なので、敷居は高い。坂元裕二にはなりたくても、なれない。

大根仁と佐久間宣行になりたい人は、もしかしたら、たくさんいるかもしれない。そう思うと、ぞっとする。彼ら、二人は才能もあり、時代との相性もよく、今のポジションを確立しただけで、みんなが目指せる立ち位置ではない。

エンタメのど真ん中でエンタメを作る二人は、もちろんエンタメを肯定的に語る。ただ、彼らにはなれない。

文化的なものに触れていたいし、それが生きがいで、それが仕事だったら、最高じゃん、と思っているそこのあなた。

それはその通りなのだけれど、あなたがエンタメを愛しても、エンタメがあなたを愛してくれるとは限らない。

エンタメに殺されないようにくれぐれも気をつけてほしい。

(話が大きく脱線しちゃった。許してちょんまげ)

わたしが酷評している土井裕泰監督の『罪の声』のレビューはこちら

今、夢中になっている坂元裕二脚本の『大豆田とわ子と三人の元夫』の感想はこちら

信じられないことに、この記事を書くのに、4時間もかかってしまった。400字詰め換算で14枚である。書き過ぎである。気を付けよう。

坂元裕二が語らせるのか、語りたがりが坂元裕二に引き寄せられるのか因果関係はわからないが、わたしが原因で坂元さんのこと嫌いにならないでね、と切に思う。

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