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虚構と日常をドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』を見ながら考えている

2021年4月期の連続ドラマの『大豆田とわ子と三人の元夫』を毎週楽しみにしている。

連続ドラマの放送を楽しみにするのは久しぶりのことだ。

脚本は坂元裕二なので、面白くないわけがない。もう保証書付きのドラマだといっても過言ではない。

私が坂元裕二の凄みを(遅ればせながら)、『最高の離婚』の連続ドラマ終了後のスペシャル版(後日譚)で知った。

連続ドラマの最終回は、元妻(尾野真千子)と元夫(当時の瑛太)が復縁するのだろう、と明るい期待を視聴者に抱かせ終わる。「ああ、よかったな」と思った記憶がある。

ところがどっこい後日譚では、復縁(修復)が不可能となったことが描かれる。元夫は言ってはいけないことで元妻を傷つけ、元妻は元夫が無神経であったことを再確認してしまう。この人とよりを戻してもうまくはいかないだろう、という確信する。

スペシャルドラマの終盤、元夫は会社で昇進を果たす。喜ばしい出来事であるはずなのに、誰とも共有することができない現実が数秒で描かれる。

実家の家族たちは、自分の家族のことで忙しい。自分の昇進を話せるような友人もいない。

自分の出世を喜んでくれるのは、妻だけだったのかもしれない、と夫は気が付く。運命共同体でなければ、おめでたいことがあっても、誰もあなたを祝福はしない。当たり前だけれど、普段はなかなか認識できないことだ。ハッピーな出来事があったから、失ったものの大きさがわかる、という残酷なシーンであった。

永山瑛太の虚ろな表情、目黒川沿いをあんなに寂しそうに歩く主人公は見たことがなかった。それがラストシーンで、『最高の離婚』は終わる。失ったのは、戸籍上の妻でもなく、セックスの相手でもなく、我がことのように自分と一緒に喜んでくれるパートナーだったのである。良いことがあっても一緒に喜んでくれる人のいない人生を歩むのはつらいことなのだと私はしっかり学んだ。(我ながら、すんごい優等生的な視聴者である)

『花束みたいな恋をした』も、観に行く予定だったのであるが、緊急事態宣言もあり、まだ鑑賞できていないのが残念である。

私の中で坂元裕二と遊川和彦は、どこまでも、創造的に闘おう、という意志の強さを感じさせる脚本家である。

さて、『大豆田とわ子と三人の元夫』に話を戻す。

元妻と三人の元夫は、現実にはありえない軽やかな関係性を維持している。元夫の三人は、濃淡はあれど、元妻が好きで、どこか恋をしている。元妻は別れた理由を自覚しているから、彼らに近付かないが、縁を切るほど憎んではいない。この塩梅がすでにフィクションであるのだけれど、大豆田とわ子が心底うらやましい。

来週からはオダギリジョーが、新しい恋のお相手として、登場するようである。(私の中で、オダギリジョーと永山瑛太は競合する。二人とも、雰囲気のあるイケメンで、モデル体型で、どうにも被る。ただ、永山瑛太が出ないことはわかっていた。なぜなら、TBSのドラマに出ているから)

松たか子が演じる大豆田とわ子は、とんでもなくキュートで美しい。だからこそ、三人の元夫に好かれ、社長業をこなし、新たな恋も降ってくる。

そして、このドラマをスーパーの弁当(三割引き)を食べながら見る自分をふと省みる。

なぜ、私は一度も結婚していないのだろう。

もちろん、大豆田とわ子のような、きれいな離婚などできるわけがない。男女関係なんて、行きつく先は愛憎半ばである。

そして、「ドラマを楽しみにする人生」というものについても、少し考えてしまった。

(ここからが、本題です!)

おそらく自分の人生そのものがドラマチックな人たちは連続ドラマなど、見ないのではないだろうか。いや、見る時間がないだろう。

「ドラマを楽しみにできる人生」は「日常が安定していること」を意味する。

帰るべき家があり、ある程度、経済的な安定があり、規則的な生活が送れているからこそ、テレビの前でドラマを心待ちにすることができる。

ドラマチックな人は、連続ドラマを見ていない。

ドラマで高揚する必要がない人たちも、現実には多数いる。

ドラマとは、あくまでフィクションで、私たちの生活にちょっとした潤いを与えてくれるものだ。それがドラマの最も良い楽しみ方なのだろう。

しかし、私は子どもの頃からフィクションが好きで、フィクションを楽しみに生きてきた。

テレビドラマ、アニメ、漫画、ゲーム、映画とあげていけばキリがないが、フィクションを中心に生きてきた。

ドラマチックではない私は、自分の暮らしに「ドラマはいらない」と思ってきた。

何か特別なイベントや嫌な事件があったとしても、なるべく日常生活を維持したい。なぜかというと、人生は繰り返しに過ぎない、と思っているからだ。

淡々と生きることが最善であると思う一方で、

「ドラマのようにドラマチックに生きたほうが幸せだったのではないか」

とも思ってしまうこともある。

フィクションに夢中になっているときは、気持ちがよい。それは”集中”しているからにほかならない。何かを書いているとき、仕事を効率よくこなせているときの快楽も、そこに要因がある。

ただ、自分の人生を生きていないかのような不思議な感覚にとらわれることもある。

私は、ドラマの当事者ではなく、ドラマを見る側(消費者)を宿命づけられているのだろうか。

つまり、フィクションが私の人生のど真ん中に鎮座し、私自身はそれを中心にぐるぐるしているだけなのではなかろうか、と不安がよぎる。

ただ、これまでの人生で私の心を奪ったのは、現実の隣人ではなく、フィクションであったことのほうが、圧倒的に多い。(ダメージを与えたり、傷つけてくるのは、圧倒的に現実の隣人である)

退屈でうんざりする日常から逃れるために、フィクション(虚構)を観て、気分転換したり、現実逃避するのが、フィクションの本来の効用であるとすれば、私は転倒している。

フィクションにうっとりするのが目的で、日々を生きている。

もちろん、フィクションが楽しめる今の生活は悪くない。恵まれているといえなくもない。

つい数か月前の年度末は、フィクションを観る余裕はなく、食べて寝るだけの生活になっていた。

虚構のような生活をおそれる一方で、どこかでそれを望んでいるようなふしもある。

私は孤独な群衆の一員として日々を生き、その日々の慰めとして、虚構を楽しんでいる。

私は自らを登場人物たらしめ、現実を虚構化することに淡い期待を抱いている。

そして、私は虚構を作り上げ、大衆を恍惚とさせる神様になりたいとも、日々願ってもいる。

本当に、我ながら、面倒くさいやつだと思う。しかし、この三人の自分は、間違いなく私であり、あなたのことなのではないだろうか。

(ある種の人々にとっては、自明のことであったのかもしれないが、整理してみた次第である)

そして、虚構にどっぷり肩まで浸かって生きてきた私にとって、『大豆田とわ子と三人の元夫』の第六話で急逝したかごめちゃん(市川実日子)の部屋にあったスイカのうちわは、たまらないほど気持ちよかった。木皿泉もいいよね、と。

そういうわけで、私も大豆田とわ子に負けぬよう、最後の恋をしたい、と思っている。



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