非常事態、それでも紡がれる文章。 〜前編〜
言葉を紡ぐこと。紡がれた言葉を読むこと。
人類は、いついかなる時も、どんな非常事態であっても、言葉を伝える営みを続けてきた。
人間には、自らの考えを言語化し、他者に伝えたいという強い欲求がある。自身の言葉を第三者に、後世に届けたいという強い意志がある。
その思いは、実は非常事態においてこそ、最も強まるのかもしれない。
緊迫した状況、危機的な場面、絶望の淵。
そんな非常時に紡がれた文章には、人の心を揺さぶる力が籠っている。
太宰が晩年に残した「人間失格」や「桜桃」などの作品には、読者を引きつけて離さない力がある。それは、太宰自身の抱える絶望や自殺念慮が、彼の紡ぐ言葉に宿り、力を放っているからだと思う。
新型コロナウイルスの流行、ロシアのウクライナ侵略。現代は、未曾有の非常事態下にある。
それでも人は、言葉を欲する。言葉を紡ぎ、言葉を運び、言葉を受け取る。
今回ご紹介するのは、非常事態の最中で書かれた作品だ。辛くて苦しい、明日に希望を見出すのも難しい状況で、それでも、書かれるべくして書かれた文章。その力強さに圧倒される、そんな読書体験だ。
デカメロンプロジェクト
イタリア・ルネサンス期の作家、ジョヴァンニ・ボッカッチョの小説『デカメロン』。
「ペスト」という感染症が流行するフィレンツェで、10人の若い男女が隔離生活を送り、それぞれの物語を聞かせ合うという話だ。
若い男女が語る物語に、彼らを苦しめるペストを取り上げたものはない。架空の馬鹿げた話や、恋の打ち明け話などがほとんどだ。
人の命を奪う疫病が蔓延する、非常事態。人々は架空の物語に、現実から逃れる術を求める。そして逆説的に、架空の物語によって、辛い現実を生き抜く術を見出す。
新型コロナウイルスの感染が世界的に広がり始めた頃。カナダ系アメリカ人の小説家リヴカ・ガルチェンから、ボッカッチョの『デカメロン』に言及する小説を書きたいという、1件の申し入れがあった。
連絡を受けたニューヨーク・タイムズ・マガジンは、そこから着想を得て、世界中の作家から隔離生活中に書かれた小説を集め、コロナ禍の『デカメロン』を作成するプロジェクトを思いつく。
そうして完成したのが本作、『デカメロン・プロジェクト パンデミックから生まれた29の物語』だ。
タイトルの通り、本作は29の個性豊かな短編から成っている。
本作に小説を寄稿したのは、世界中の様々な国・言語・人種の作家たち。加えて日本語版の出版にあたっては、多くの翻訳家の方々が携わっている。
新型コロナウイルスという共通の危機に直面する人々が、国境を超えて「デカメロン・プロジェクト」という、壮大な計画に協力した。非常事態の今だからこそ、紡ぐことのできる言葉を紡いだ。
収録されている短編は、エッセイ調のものから本格的なSFまで、ジャンルの垣根は一切ない。
本家『デカメロン』のように、各話に共通のテーマをあえて設けないことで、作者各々の特色が色濃く表れ、それが独特な調和を生んでいる。
ひとつだけ共通しているのは、いずれの作品にも、新型コロナウイルスの猛威に対する不安、緊迫感、閉塞感が感じられることだ。直接的にコロナに言及していなくても、言葉の裏側に、その影が潜んでいるのを感じる。
本作に載っている29の短編は、良くも悪くも新型コロナウイルスに影響を受け、コロナ禍だからこそ生まれた作品だ。こういう状況にならなければ、決してこの世に生み落とされることのなかった言葉が、そこにはある。
そう考えると、作品に対する敬意や感動が増してくる。先の見通せない生活の中で、それでも物語を紡がずにはいられなかった、作家の思いが伝わってくる。
私は『デカメロン・プロジェクト』を、すごく素敵な試みだと思った。
こんな非常時に、小説などという娯楽にかまけている余裕はないという意見もあるだろうし、それもまた事実だ。
でも、いついかなる状況でも、人は言葉を生み出す。その営みは、誰にも妨げることはできない。そして、それを読みたいと願う心もまた、誰にも制限できるものではない。
非常事態、それでも紡がれる文章。そこには、書き手と読み手双方の、言葉への愛が詰まっている。どんな逆境でも、必要とする人のもとへ、言葉はきっと届く。
↓この記事の後編はこちら!
↓暮らしを豊かにするために、好きなことを好きなだけ。
↓本に関するおすすめ記事をまとめています。
↓読書会のPodcast「本の海を泳ぐ」を配信しています。
↓マシュマロでご意見、ご質問を募集しています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?