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ジャイアンに好かれる先生、嫌われる先生

私は「真面目な児童」に好かれる傾向にあると思う。
この分析は大いに主観的であり、何も根拠はない。でも、そう感じる。

私はあまり子どもに嫌われることはないが、たまに「ジャイアン」に嫌われることがある。
今日はこのことを分析していきたいと思う。

ここでいう「ジャイアン」とは、ドラえもんに登場するジャイアンというよりは、「権力があり、自分の思うがままに振る舞うことができる児童」という想定で読んでもらいたい。ただ、たまに「ドラえもんのジャイアン」とも重ねるので、その辺の境目は曖昧であることもご了承願いたい。

さて、私は学校の先生として、「平等」よりも「公正」を愛する。
それは「平等」だけが達成されている社会は「不公正」であると考えるからだ。
しかし、学校は「平等」を愛する。
というのは、平等は扱い易く、公正は扱いが困難であるからだ。

平等の運用方針はわかりやすい。
「全員を同じように扱う」、これに尽きる。
「できる子」にも「できない子」にも「計算を20問」やらせる。
これが平等だ。何も問題を感じない先生の方が多いだろう。
しかし繰り返すが、これは「公正」ではない。

できる子にとっては「20問」なんて朝飯前だろう。
すぐに終わらせて、休み時間を存分に楽しめる。

できない子にとっての「20問」は地獄だろう。
休み時間になっても終わらせることができずに、休み時間を楽しむことができない。

ここで平等と相性の良い概念がやってくる。
そう。悪名高き「自己責任」だ。
学校は子どもたちに「平等」と「自己責任」をセットで要求する。

「授業中に20問を終えることのできなったあなたが悪い。だから、休み時間は無しだ!」
このような言明に違和感を覚えない先生が多いと思うが、これはかなり危険な思考法である。

「あなたにもいじめられる理由があるからね。先生もいじめてしまう子の気持ち、わかるわぁ。」
なんて、子どもに対して素で言ってしまってそうである。

公正の感覚を持った教師は、こんな「教育虐待」みたいな事態に違和感を覚える。
そもそも先ほどの例における「20問」には何も根拠がない。
そして、子どもたちの能力は決して「平等」ではない。
走るのが早い子もいれば、好き嫌いなく食べることができる子もいる。
だから、「20問」を「5分で解ける子」もいれば「20分でも解けない子」もいるのだ。

では、どうすればいいのか。「全くやらせない」という選択肢も心が傷む。
ここで、「20問」という課題の設定方法を「定量制」としよう。
それに対して、私は「10分間」という課題の設定方法を提案する。
このような設定方法を「定量制」に対して「定時制」と呼びたいと思う。

「定時制」ならば、子どもの間に能力差があったとしても、どんな子でも休み時間を迎えることができる。

学校は平等を愛するが故に、学校文化に付いていけない子や馴染めない子に対して「敷居が高くなっている」というのが、私の問題意識である。

さて、話をジャイアンに戻そう。

ジャイアン的な児童は「平等」を愛する。
それは何故か。

平等な環境においては、「相対的な強者」が思い通りに振る舞うことが出来るからだ。

修学旅行の班決めの時間を思い出してもらいたい。
「先生、子どもたちで自由に決めてもいいですか?」と提案するのは、スクールカースト(嫌な言葉だ)における上位層の子どもである。

誰にでも発言権がある状況というのは、とても平等ではあるのだが、そこでは「児童の間の権力の力学」がどうしても作用してしまう。
平等を謳う「新自由主義的政策」によって、富めるものはますます富み、貧するものはますます貧することに似ている。

社会を変えることはできないが、その力学の作用を少しでも緩和できるのが、教室における教師であろう。

平等を維持しつつ、その中で公正を実現させるという高度なスキルは子どもにはない。教室における唯一の大人である教師こそが、その高度なスキルを体現しなければいけないのだ。

しかし、教師は平等を愛する。

だから、ジャイアン的な児童はどんどん増長してしまう。
教師からしても、公正という「扱いの難しい」ものを扱うよりは、「平等です」としていた方が楽である。
さらに、楽であるばかりか「説明責任」さえも果たすことができる。
「私はどの子にも同じように接しています。」というのは、保護者に対しても反論を許さない言い方になる。

「私はあの子だけを、贔屓しています」という教師の言明を受け入れられる保護者はごく少数であろう。

でも、ここであえて言いたい。教師は贔屓をしないといけないのだ。
「弱者を助ける」ことを、「平等という屁理屈を捏ねて」怠けてはいけない。

実は、ジャイアンの増長は、教師の「事なかれ主義」的な「平等思想」が生み出した怪物なのだ。

怪物という言葉を使った。
実際、学級崩壊などを引き起こすような児童はいるが、ジャイアンタイプもその典型例であることは見逃せない。
平等な教室の環境で、増長してしまったジャイアンは、その権力を増やしていき、そのうち、権力の弱い教師を叩き潰し、ジャイアン帝国を作る。

教師はジャイアンに従うか、自分が病気休職を取得するかの二択を迫られる。

ジャイアンは公正を嫌う。何故なら、平等で味わっていた「優越感」を感じにくくなるからだ。公正な先生は、ジャイアンの言動が気になってしまう。ジャイアンは目立つようなルールの逸脱はしない。でも、周りを下に見ている。自分には能力があり、周りを駒のように扱っても咎められることはなかったのに、公正な先生は、「それはいけないよ」と指導してくる。

「何がいけないのか」がジャイアンにはわからない。平等な教室の中でずっとそうやってきた。ルール違反をしているわけではない。周りの弱者をいくら小突いても、それは「他の子」だってやっている。
特に、勉強が苦手はのび太はいつも「先生に注意されている」ではないか。
だったら、俺だってのび太に注意してもいい。
先生もしているのだから。

「おい、のび太、お前、今日も忘れ物して先生に怒られてだろう。ちゃんとやれよな!!」

平等は「できない子」にとって辛い環境だ。どうしても先生からの指導の回数が増えてくる。そして、そういう空気を察知するのがジャイアンタイプなのだ。

あえて、強い言明を言おう。
学校における平等主義こそいじめの根底にある害悪である、と。

子どもたちは千差万別である。
だったら、先生がするべきことは、できる子はさらに伸ばし、苦手な子を救うことではないだろうか。

平等主義の中で、自己責任論をかざし、保護者からの説明責任を逃れるような事なかれ主義は、できない子を追い詰めるだけで、人間形成としての教育の役割を果たせていない、と思う。