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教育書文化に物申す

教育書という本のジャンルがある。私自身も過去に教育書を6冊ほど出している。
教育書というジャンルは「専門書」という分類になるので、いわゆる漫画や小説や啓発本のような「一般書」ではないため、置いていない書店も多い。
実際、私の地元の大型ショッピングモールにある書店にも、拙著は並んでいない。いつか「地元の書店で自分の本を買いたい」というのが夢でもある。

教育書のターゲットはもちろん「学校の先生」である。これはニッチな領域に感じるが、小学校・中学校・高等学校などを合わせて「学校の先生」というのは「約100万人」いるとされている。100万人の市場は大きく感じるが、実際は、こんなに大きな市場ではない。というのも、「小学校」と「それ以降の学校種」では「教育の方法」や「教師の関心」が異なるからだ。
小学校教員の数だと「40万人」と言われている。これでも十分に大きなマーケットではあると感じるが。

小学校の教育の主な特徴は「学級担任制」であろう。学級には「先生」がいて、その先生が、学級のほぼ全ての教育実践に関与する。責任は大きいが、裁量権も大きい。授業に関する本、生徒指導に関する本、学級運営に関する本、今で言えば、ICT機器に関する本なども出ている。
一方、それ以降の学校種は、学級担任制ではなく「教科担任制」である。だから、まず「教科ごと」関心が分かれる。さらに「学級における裁量」も小学校教員のそれとは大きく異なるだろう。

Twitter(新X)においても、発言をしている教員は、その数の多さもあるだろうが「小学校教員」が多い印象である。そして、教育書の著者もその影響だろうが小学校教員が圧倒的に多い。書ける領域が広いので、当然の結果だろう。

「教育書文化」には日本独特な部分があるという話を聞いたことがある。日本以外の国では、教育の専門書を執筆する人は「研究者」がほとんどらしい。まあ、これは納得できる。一方、日本では教育書の執筆者には、もちろん研究者も多数いるが「現職教員」の方が多いと感じる。そして、その傾向はここ数年で顕著になっている。

それは先述のTwitterやInstagramなどのSNSの影響もあるだろう。SNSが広がる前においては、学校教育における現職教員の教育を担っていたのは当然「現場」である。学年主任や教育委員会の指導主事などが、現場で使える技術や考え方などを伝達することで、教育水準を保ってきた。しかし、SNSがこれだけ広がった現代においては、「現場」だけが「唯一の現職教育の場」ではなくなった。むしろ、自分の現場という狭い場所から抜け出して、日本全国の教員の発信した教育実践の情報が渦巻くSNSに「自身が欲している情報を見出す」というのは自然な流れであろう。

これは、教員の年齢構成にも関係している。私は、教員の大量退職に伴う大量採用された世代であるが、この世代が「中堅」になってきた現在、「50〜60代」の教員は激減している。この世代は就職氷河期であり、採用が手控えられていた世代だからである。現場において「指導的役割」とされてきたベテラン世代の絶対数が少ない現在、現場における現職教育という側面も弱くなってきたという指摘も通用するであろう。

この流れは「執筆者の属性」も大きく変えることになる。
それまでは「教育書を執筆できる教員」というのは特定の限られた教員だけであった。具体的に言えば、「有名な研究校で勤務している」や「有力な教育研究部に所属している」や「著名な教育実践家と繋がりがある」などの条件を満たす必要があった。
だから、執筆に憧れる教員は、そのような「権威」に近づく必要があり、長い「下積み」や「修行」を経て、初めて「自身の著作」を持てるというイメージがあった。

しかし、これはSNSの登場で一気に崩れることになる。
SNSで有名になり、フォロワーをたくさん抱えることができれば、先述のような「権威」を頼らなくても、一躍有名になることができるのだ。

そして、そこに目をつけたのは「出版社」である。
一般書の売り上げは「1500部」が損益分岐点という話を聞いたことがあるが、教育書は専門書なので、「1000部」あたりが損益分岐点なのだろう(だから、価格は一般書よりも高価格である)。
現在は、フォロワーが「10000人超」の教員アカウントは山のようにある。これらのフォロワーの「一割」でも本を買えば、損益分岐の「1000部」は容易に達成できるという算段なのであろう。

出版危機が叫ばれている現在であるが、本屋を見れば分かる通り、毎月のように「新刊本」は発売されている。これは出版業界も「じっくり良い本を作っていく」という方法から「たくさん出版して当たりが出ればラッキー」という、薄利多売に方針を変更したことの表れであろう。
実際、教育書の編集者の中には、春の教育書商戦に合わせて「この春だけで、一人で10冊の企画を出版させました」という話も聞く。売り上げが「本の内容」よりも「10000人の一割」などに影響が受けると考えれば、この数の異常さにも納得させられてしまう。

まあ、これは悪いことばかりではないのも事実だ。それまでの「特定の権威」による「執筆者の選抜」は、健全な競争とは言いにくい。それは内容の固定化を生むだろうし、教育書のバラエティを損ねることにも繋がっていただろう。
例えば、これは架空の想定ではあるが、産育休を複数回経験し、特定の教育研究団体にも所属していない女性教員が、自身で考えた「子育てをしながら、無理のない働き方について」というテーマが教育書になることは、それまではありなかったであろうが、現在ではこのような本が売れる想像をすることは簡単である。

さて、本論考では、現在の教育書文化の「悪いこと」を論じていくつもりである。
それは「売れれば良い」という点への攻撃となる。
まあ、これは現在の出版業界全般に言えることになるであろうが、私自身は教育書のことしか詳しくないので、そこに限定して語らせてもらう。

まず、「売れる教育書」について考えてみよう。
それは「現場の教員」が「読みたい」と感じる内容である。
読者層を考えて、そこをターゲットにして出版の企画を考えるというのは、「商業出版」においては当然の振る舞いである。

しかし、そこに潜んでいる問題点については、あまり可視化されることがない。それは「売れるものは良いものだ」という価値観が我々に深く内面化してしまっているからだ。市場経済においては、「売れるものは良いもの」ということを否定するロジックは存在しない。自由な競争の中で、多くの消費者を支持を集めるということこそが「質を保証する」と信じて疑わない人たちはたくさんいる。
これを政治に応用したのが、まさしく大阪の維新の政治であろう。「選挙に選ばれた者は、有権者から白紙委任状を手渡された」と誤解している節が様々な点で露見してしまっている。

では、本というのは「商品」なのだろうか。
実際にマーケットで流通しているモノを持ち出して、「これは商品なのか」という問いは愚かに感じるかもしれないが、私はあえて問いたい。

「本は商品なのだろうか」

これについて、当然、私の中には「否、本は商品ではない!」という思いがあるのだが、その理路についてこれから説明していこう。

まず、読書体験というものを考えてみよう。
これは一見、平凡な営みであるが、よくよく考えると、かなり奇妙な体験であることに気付かされる。
それは「読む前」から「読んだ後」に起きる「読者の予測不可能な変容」からも分かる。読書というのは基本的に「予測不可能性」によって、その活動の質が担保されているとも言える。

例えば、私のお気に入りの一冊に『街場の教育論』(内田樹著 ミシマ社)というのがある。「教育論」と書いてあるから、未読の読者からすれば「教育の話」が語られると思うかもしれないが、内容は想像の斜め上を行く。
最後の章なんかは「宗教」についても語る。日本の学校教育において「宗教性」を意識させられることはほとんど無いが、考えてみると「宗教性と教育」というのは相性が良いことに気付かされる。そして、これは「読む前」には気づけなかった、私の変容である。
「宗教性について理解を深めたい」という思いは、読む前には全く無かった。しかし、本を読んだ後、「あぁ、もっと宗教性について学びたい」と思うようになった。

これは一般的な買い物とは異なる体験である。
「教育の本を買ったのに、教育のことをあまり語っていない」というのは、買い物的な感覚からすれば「クレーム案件」にもなるだろう。それはつまり「肉まんを買ったけど、中身はあんまんだった」ということだ。「おい、金返せ!」と消費者は怒り、「失礼しました」と店員は返金に応じることになる。

でも、読書体験ではそうならない。

「読む前」の予想と異なるからと言って、「読んだ後」に本屋に返金を求める消費者は少ないであろう。つまり、読書体験というのは「そういうもの」であることは、社会的な共通了解であるということだ。

その理路で考えると、先述の「現場の教員」が「読みたい」と(出版社が)想像する「売れる教育書」を出版するというのは問題がありそうである。

売るためには、消費者に「買いたい」と思わせないといけない。だから、題名が「目的志向型」になる。例えば、「1ヶ月で5キロ痩せられる」とか「3ヶ月で英語が話せるようなる」などである。そして、題名と内容があまりに齟齬している場合、その本は売れなくなってしまうので、内容も当然、題名通りになる。

実際、現在の売れ筋の教育書の題名を一部引用すると、

・子どもを伸ばす言葉
・教室で役立つ
・脳が変わる
・帯指導の教科書
・授業づくりガイド
・明日も行きたい教室づくり
(以上、Amazonの「教師向け書籍」の売れ筋ランキング 2024・2・23現在のトップ10から題名を一部抜粋)

いずれも「目的志向型」であり、現場の困り感というニーズに出版社がキャッチアップしていることを感じる。

しかし、読書体験が、「それだけ」ではダメなのである。
現場のニーズ→教育書
ではなくて
教育書→現場のニーズ
ということを提案したいのだ。

上記の何が問題なのだろうか。
それは「消費者(ここでは現場の先生)のニーズが絶対である」という市場経済の前提で出版がされている点である。
繰り返すが、ここでの話は商業出版なので、売れないとダメ、というのは分かる。でも、より良い教育を実現していくためには、教育書は「現場のニーズの後追い」だけではダメだろうという、難度の高い注文なのである。

むしろ、「現場のニーズを生み出す」ような気概を教育系出版社には持ってほしいと感じる。
これも繰り返すが、それまでの教育書の執筆陣は「権威での成功」という厳しい査定を乗り越えてきた教員にしか与えられない特権であったのだ。だから、その内容は、どうしても「権威に迎合する」ものに成らざるを得なかった。つまり、「自身の権威を裏切る行為は許されない」ということである。
執筆は「個人的な営み」ではなくて「集団的な営み」になるのだ。しかし、現状はSNSの普及によって、その傾向はより「個人的」になっている。だからこそ、これまでになかったような教育書のスタンスがもっと自由に模索されても良いのではないか。
もちろん「現場のニーズにキャッチアップ」というのも、その一つの形態なのであろう。しかし、現在は「それに偏り過ぎ」なのである。

もっと自由に、もっと現場の先生が考えていなかった重要な論点を現場へ提示できるような出版企画が増えることを期待する。それは、現場のニーズを生み出すような内容になるはずである。

「あぁ、こんなことを、考えたことがなかったけど、とても大事じゃないか」という読後感を教師にもたらせる教育書が増えればいいし、私はそういうものを書いていきたい。