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忙しい教師たちの授業のあり方

学校の先生は忙しい。
勤務時間前から子どもたちは登校し、勤務時間終了になっても研修や会議は終わらない。

子どもたちとの授業は楽しいが、純粋に授業のことばかりを考える時間は実はとても少ない。

では、教師は一体、何をしているのだろうか。
本校の教職員を眺めてみると、一番多いのは「ノートやプリントの点検」のように感じる。他には「保護者への連絡」や「校内会議の資料作成」や「学年打ち合わせ」などもあるだろう。おそらく、私が補足しきれていないような業務も数多くある。

学校には「校務分掌(こうむぶんしょう)」という考え方があり、これは学校業務を教職員で分担して運営していくというものである。

例えば、「体育主任」という校務分掌に任命されれば、「運動会」や「プール水泳」などの行事についての企画やら運営を行なっていく。
「教科書担当」という校務分掌に任命されれば、年度はじめに向けて教科書を発注したり、転校生が来れば追加分を発注したりする。
このような校務分掌が数十も存在していて、その全てを網羅的に把握できている教職員はおそらくいない。

学校の外側から見れば、一様に「先生」に見えても、その働き方については、千差万別という様相であり、そういう意味でも、教師の働き方改革というのはなかなか困難であると感じる。

ただ、働き方は千差万別であっても、一様に「先生は忙しい」という事実は変わらない。確かに、先生は忙しいのである。これについては、各種メディアで報じられている通りであり、実際、多くの先生が年度途中でリタイアしてしまう事例も後を断たない。

近年叫ばれている「先生不足」というのは、ここに関係している。
つまり、以前まではリタイアした教員を「補充する」制度が機能していたが、近年、その制度が機能しなくなっている、ということだ。
補充されるのは「講師」という人たちで、これは「採用試験に不合格であった人たち」である。免許は持っていて現場で働く意欲もあるけど、採用試験は不合格だった人たちが一定数いたので、学校現場は成り立っていたのである。

付言すれば、現在、大量退職に伴って、大量採用された層が「30代後半」であり、「結婚・育児の適齢期」という事情もある。彼女・彼たちの多くが「育児休業」を取得し、それの補充がままならないのだ。まあ、これは一過性の問題であり、そういう意味で、文科省も財務省も「喉元すぎれば」と目論んでいる可能性もあるとも考えられるが。

教員不足というのは、現場に確実にダメージを与える。
それは「一人分の仕事」が「数人にのしかかる」ことになるからだ。
例えば、学級担任が年度途中でリタイアするとする。学級担任不在のままではいけないので、5年生と6年生の音楽科を教えていた教員が代わりに学級担任になる。すると、5年生と6年生の音楽科は「学級担任がする」ことになる。
このように教職員の欠員が出ると、玉突きのようの他の教員の業務が増える。それぞれの教員の業務量はただでさえ多いのに、追加業務もとなると、現場は逼迫する。

学校には「学級担任」以外にも「音楽専科」や「理科専科」や「教務主任」など様々な教職員がいるが、先述の通り「欠員を校内で賄う」という構造にはなっていないため、その負担感は一層大きい。


学校の先生が忙しいという話をここまでしてきたが、ここからは「先生が忙しい」ことの弊害を考えていきたいと思う。

教育という営みは「不可知」であると思う。「AをしたらBになる」のように考えることは不可能であり、またそのように教育を捉えてしまう事は危険でさえある。教育は「他者である子ども」に対して身体的にも精神的にも深く介入する行為であり、そこには「(教師側の)一定の節度」が求められると思うが、「先生の忙しさ」はこれを教師に忘れさせてしまうのではないだろうか。

教育が「低位の課題をこなしていき、上位の課題を達成する営み」だと考えている教師は多いだろう。それは、「2年生の間に九九を習得させておかなければ、3年生のかけ算の筆算で躓いてしまう」という教師の焦慮からも窺い知れる。

教育学には長い間「系統主義」と「体験主義」という二項対立が存在していて、それらは揺り戻しのように行ったり来たりしているのだが、現在の学校現場は「系統主義」が根強く残っている。(ざっくりと説明すると、系統主義は「教材の配列や教え方」を重視し、体験主義は「子どもたちの学びそのもの」を重視する。当然だが、どちらかだけを重視することは愚かであり、「良い授業」とは、この二つの絶妙なブレンドの上に達成されるのである。)

系統主義が根強く残っていることの証左として、「教科書を教える」ということを授業だと考える教師は非常に多い。これは「教科書で教える」との対比表現である。
「を教える」派の教師は、教科書会社の作った指導計画の遵守こそが自身の仕事であると信じて疑わない。実際、本校では金曜日になると「学年打ち合わせ」というものが行われるが、その会議の議題の大半は「学習進度の確認と調整」である。これを「足並みを揃える」と表現することもある。指導計画通りに授業をし、教え漏れがなければそれで良いということを授業の目的にしてしまうことが、私には「かなり程度の低い授業観」であると感じてしまうが、この感覚は現場では共有されにくいのだろう。

「で教える」派の教師だって、教科書は使うし、指導計画は概ね守る。しかし、授業の進行はあくまで「子どもたちと作り上げる」と考えているから、内容によっては当然、教科書から逸脱することもある。教科書会社が想定している通りに達成される授業を「教師の一人相撲」だと感じてしまうし、指導計画からの逸脱を「豊かな学び」だと捉える。

系統主義はわかりやすい。課題達成指標が明確であり、授業における「考えなければならないこと」が少ない。つまり、教師の認知的負荷が少ないとも言える。ある種の型があり、それをしっかりと遂行すれば責任を問われることはない。

これは「忙しい学校現場」とマッチしている。
さらに言えば、保護者の最大のニーズである「学力保障」ともマッチしている。
さらにさらに言えば、管理職による教職員への「人事考課制度」ともマッチしている。

保護者の「学力保障」というのは、少し言い方を変えれば「教え漏れ」への嫌悪感である。これは「高等学校必履修科目未履修問題」以降顕著になった考えである。この問題の概略は、一部の高等学校において、学習指導要領上は必履修科目であった「世界史」などが、受験対策のために未履修になっていた問題であり、社会問題化した。
我が子の学校の話であるが、我が子の隣のクラスの先生は「子どもたちへの説教」で「授業時間が無くなる」ことが度々あるらしく、それへの強い不満を持った保護者数人が校長に対して直談判をしたという話を聞いた。
「他の子たちは習っているのに、我が子は教えてもらっていない」というのは、保護者からすれば、我慢できない事態なのであろう。

管理職による教職員への「人事考課制度」というのは、管理職が教職員を「評価」するシステムである。本校では「年に一回」管理職がチェックリストを片手に授業を点検しに来る。その内容項目は多岐に渡り、授業において「学習目標は明確に示されているか」から「子どもたちの意欲を引き出しているか」まで、管理職は数値で評価している。そして、その評価などをもとに人事考課が決定されるのだ。
この管理職による授業評価システムは考えるまでもないが、「系統主義に基づいた授業」という想定がされている。そうでなければ、数十にもわたるチェックリストをもとに授業を評価することなど不可能である。言うまでもないが、この手のチェックリスト型の授業評価に対しては「を教える」型の授業は強いし、「で教える」型は弱くなる。

このように系統主義的な授業観は、現在の学校現場とマッチしている。
しかし、特定の主義が強くなりすぎることには弊害がある。
公正を期すために述べておくと、体験主義が強くなり過ぎた時代も過去には当然あり、その頃の教育は「這い回る経験主義」とか「活動あって学びなし」なんて言われていた。

どのような授業観を教師が持つかというのは、死活的に重要な問題であるが、現在の学校現場の教師たちには、そうした問題と向き合えるほどの余裕がない。