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とある教師の愚痴

学校には数多くのステークホルダーが存在します。ステークホルダーとは「利害関係者」と訳される言葉ですが、ここでは「学校関係者」という意味で使わせてもらいます。学校のステークホルダーは、文部科学省、教育学者、教育委員会、地域住民、保護者、そして、子どもなどが挙げられるでしょう。最近では、「教育評論家」も増えてきた印象ですね。彼らも学校の「おかしさ」を告発することで利益を得ているわけですから、立派なステークホルダーです。

つまり、学校の先生をやる以上、上記で挙げたステークホルダーの方々への「ご配慮」無しにはやっていけない、ということになります。これは全く大袈裟ではありません。
マスメディアにいじめ事件が報道されれば、文科省から「いじめ調査」の依頼が来ますし、教育委員会が「自主学習をさせたい」と考えれば「自主学習実施状況調査」に答えないといけません。教育学者が「体育科でも、児童の思考の様子を評価しないといけない」と言えば、「体育の時間にワークシートを書く」という授業スタイルが生まれる。地域住民から「我が家の敷地を横切る子供がいる」とクレームが来れば、そこから一週間は教職員は「登下校巡視」に駆り出されるわけです。この手の例は挙げ出せばきりがありません。

その中でも最大のステークホルダーだと感じるのは「保護者」です。これは、まあ、当然ですよね。現場のおかしさを告発して利益を得ている教育評論家の方々と違って、保護者は自らが養育している子供を預けているわけですから。でも、この最大のステークホルダーである保護者の声というのが、近年、とみに増えてきたような気がします。そして、その影響で教育実践が「やりにくい」と感じる教員も増えてきたのではないでしょうか。今回はそんなことを述べていくつもりです。

例えば、最近の学校では、「首から上の怪我については<基本的に>保護者へ報告する」という「マナー」が存在します。これは、主に頭部への怪我についてなのですが、頭部の怪我は、怪我後数時間後に症状が出ることもあるので、そのための保護者への報告となっています。
しかし、では、どこまでが上記ルール内の「基本的に」に入るのか。休み時間にジャングルジムで遊んでいたら、頭を軽くぶつけた場合はどうなのか。落ちた鉛筆を拾おうとしたら、隣の席の子も同時に拾おうとして、頭と頭がぶつかってしまったらどうなのか。いずれも「たんこぶ」や「傷」などの怪我は確認できなかった。その後もいつも通り元気に過ごしている。だから、報告の必要はないだろう、と判断したある先生は、翌日に保護者から長時間のクレームの電話を受けていました。

「うちの子が昨日、ジャングルジムで頭を激しくぶつけたと言っています。しかも、それを聞いた先生は「様子を見ようね」と言っただけで、保健室にも連れて行ってくれなかったみたいですね。うちの子は、その後も頭がズキズキと痛んでいたそうですよ。先生はそれを知っていましたか。どうして、保護者への連絡を怠ったのですか。」

真実は一つでも、事実というのは一つではありません。
先生には「その後、いつも通りに過ごしていた」という事実がありますが、子供の事実は分かりません。軽く痛むけど過ごしていたこともあるでしょう。また、保護者の事実は「子供経由で作成される」わけです。

人間というのは「質問の仕方」によって、記憶が改竄されるそうですね。
ある実験によると、車の事故の映像を見せた後に、「あの衝突事故について教えてください」という質問と「あの接触事故について教えてください」では、回答者の間で有意な差が生じたそうです。

だから、帰宅した子どもに保護者が「今日は何か嫌なことなかった?」と聞けば、その日にあった出来事が「嫌なこと」として想起させられるわけです。

「うーん。そういえば、休み時間にジャングルジムで頭をぶつけた。」
「それで、その時、先生は何をしてくれたの?」
「特に何もしてくれなかったよ。「様子を見よう」って言ってた」
「まあ!!保健室には連れて行ってくれなかったの?」
「うん」
「そのあとは、頭は痛かった?」
「うーん、なんだか痛かったような気がする」
「まあ!今も痛む?」
「痛いような気がする」

上記会話の内容は全くの妄想の話です。でも、このように保護者が問えば、子どもだってそう答えるしかないよなという話をわかって欲しくて作文しました。

結果的に、保護者には教師には見えていなかった新たな事実が作られるわけです。ここで問題にしたいのは、「真実は何か」ということではありません。そんなもの分かりません。子どもに聞いたって分かりません。子どもの記憶の賞味期限は数時間です。では、「複数ある事実」の中で、一番、「影響力のある事実」はどれでしょうか。それは、簡単ですね。もちろん「保護者が知ってる事実」です。

こうして、この学校では「首より上の怪我は<必ず>保護者に報告する」という「ルール」が作られることになりました。これで、学校はもう安心ですね。保護者からのクレームも無くなるわけです。と思ったら、大間違いです。

ある日、鬼ごっこ中に鉄棒で頭をぶつけた子がいました。
本人はその後も鬼ごっこに夢中で取組み、チャイムがなったので、教室に戻り授業を受けていました。次の休み時間、その子は先生との雑談中に、「そういえば、さっき頭を鉄棒でぶつけた」と言いました。先生の顔面は蒼白になります。
「大変だ。すぐに保健室へ行こう」
保健室で診てもらったところ、たんこぶや傷などは確認できませんでしたが、「首から上の怪我」なので、保護者に報告をすることになりました。しかし、その子の保護者は両親共働きです。両親、どちらにも電話が繋がりません。何かあったら大変だと思った先生は、その子の祖母にもかけましたが、そこも繋がりません。

その後も、その子は日常通りに過ごしていて、痛みを訴えることもありませんでしたが、両親と祖母には「着信履歴」は残っています。その後、母親から学校へ連絡が来ました。
「学校から着信がたくさんあったみたいです。うちの子が、何かありましたか?!」
「あ、頭をぶつけたみたいです」
「血は出ているのですか?」
「いえ、傷はないみたいです」
「たんこぶは?」
「いえ、それもありません」
「今はどんな状態なのですか?」
「いつも通り、元気に過ごしているみたいです。」
「え、それだけで電話をされたのですか?」
「そうです。それがルールとなっていますので」

その後、この保護者はこの出来事について以下のように述べていたそうです。
「電話するかどうかの基準がおかしいのではないだろうか。子どもが遊んでいたら、頭くらいぶつけるものだろう。公園で遊んでいても、そんなことはよくある。その度に連絡されていたら、こちらも緊急事態の連絡に対応できなくなる。」

子どもたちは休み時間、全力で遊んでいます。だから、頭をぶつけることは珍しいことではありません。しかし、学校はクレーム対策として保護者への報告をルール化してしまいました。結果的に、特に低学年の教師たちは、休み時間終わりに授業をそっちのけで電話するという業務が発生しました。もちろん、その間、教室には誰もいません。そして、保護者側の負担も増大するわけです。多くの人は学校からの連絡にギョッとします。
「何か悪いことをしたのか」
「何か大きな怪我をしたのか」
保護者のその反応は僕も大いに共感できるだけに、このルール化の問題点も見えてしまいます。

では、ルール化しないとどうなるでしょうか。
保護者への報告の判断を各教師がすることになります。しかし、保護者のニーズは上記の2例を考えても全く異なります。結果、保護者のニーズに応えられない場合は「クレーム案件」になるわけです。
では、管理職に判断してもらうのはどうでしょうか。
そうなると、これはもう「原則連絡」という一択になることでしょう。管理職だって「クレーム案件」は嫌ですからね。「電話をしないことのクレーム」よりは「電話をしたことのクレーム」の方が数は少なそうです。
結果、教師が電話をするために教室に教師がいない時間が生まれるわけです。

図画工作科でカッターを使った日のクラスはとんでもないことになりました。この場合は、頭部の怪我ではなく、指を切ったわけですが、使い慣れていないカッターなので、いくら丁寧に指導しても数人は怪我をしてしまうものです。僕なんかは怪我をしながら、道具の危険性について学んでくれたらいいとも思うのですが、「学習活動中の怪我」なので、管理職は「全員にしっかり報告」と判断したそうです。そのクラスは、その日、薄皮を切った怪我を含めて「7人」の怪我の報告を保護者にしたそうです。かかった時間は「1時間以上」だそうです。
補足すると、学校の電話回線は多くても「3回線」です。「2回線」のところも多いです。だから、「電話待ち」の時間もたくさんあります。

学校側の気持ちはよく分かります。ルール化してしまえば「学校のルールでそうなっていますので。」という「必殺文句」が使えます。我々も役所へ行った時に「これは、規則ですので」と言われると、それ以上、何も言い返せなくなりますよね。これと全く同じです。つまり、判断の水準が「教師個人」から「組織権力」へと移行するわけですね。教師個人には文句は言えても、組織権力に文句は言えません。その主体はどこにも実存していないのですから。校長に言ったところで、「これは教職員で決めたことなので」となるだけです。

でも、これが健全ではないことはすぐに分かります。
しかし、健全ではないとわかっていながらも、どうすることもできないのが「現在の学校の弱さ」なのです。学校自身はステークホルダーからの要求を跳ね返すほどの力を持っていない。だから、結局、ステークホルダーの要求を丸呑みすることになる。そのツケを払わされるのは、まずは「先生たち」ですね。そして、先生は疲弊していき、教育のクオリティは低下していき、最後にそのツケを丸ごと引き受けるのは「子どもたち」となるわけです。

「学校教育は「地域、家庭、学校」の三者が協力していくもの」というのは、学校現場では長らく言われてきていますが、最近は、これも現実感がないなと感じます。むしろ「学校教育は「地域と家庭」の要求に振り回されている」と感じることが多くなりました。

学校が「教育活動の充実」のために主体性を発揮できるのはいつになるのでしょうか。

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