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教育は「もぐらたたき」でいいのか

教育が「もぐらたたき」になっているということを危惧している。しかし、これでは読者諸氏には伝わらないと思うので、これから色々な話をしながら、問題意識を共有していけたらと思う。

教育学が生まれて200年が経った。
これは、まあ諸説あるがヘルバルトあたりを教育学の祖として考えた場合には妥当な年数になるだろう。
もちろんこれはヘルバルトではなく、ルソーでもコメニウスでも構わない。

コメニウスは、人を「神の似姿」にするために「すべての人に、この世界のすべてを教える」という使命感のもと『大教授学』を生み出した。

ルソーは、「自然」という概念を持ち込んだ。人には「制御できない発達」があり、それをルソーは「自然」と呼んだ。子どもには子どもの「自然」があるのだからそれに沿って事物を教えていくべきだ、と。

そして、ヘルバルトはこれらをさらに発展させて、子どもの関心に沿って教え方も工夫したら良いという、現代の授業理論にも通底する考えを生み出した。ヘルバルトの考えは、その弟子のラインとチラーに引き継がれ「五段階教授法」として日本にも輸入された。

現代の算数科の授業を覗いてみれば、
①前時の内容を復習し
②本時の課題を提示し
③それをどのように解くか既習事項から考え
④学習内容をまとめて
⑤応用問題を解く
のような流れでなされているだろうが、これは、そのままヘルバルトたちの考えを根拠にしてなされているのである。余談であるが、ヘルバルトが受容された頃の日本の学校現場では「五段五段で汗水流し、今日もお腹がヘルバルト」という言葉が流行していたらしい。

近年は、このヘルバルトを起源とする「一斉授業」も批判の対象になることが多い。「子どもの関心に沿ってない」とか「教師の権威性の温床」などの批判がなされるが、実はヘルバルト以前の教授法は、現代から見ればとても教授とは思えない代物であった。
それは、現代では死語になりつつある「教鞭をとる」からも分かる通り、「できなければ鞭を打つ」というものであったそうである。そう考えれば、教育学もずいぶん進展してきた。

約100年前にはジョン・デューイがシカゴ大学内に実験学校を作り、そこで革新的な教育実践を行なった。実験学校自体は数年で幕を閉じたのだが、この実践のインパクトは世界中に「新教育運動」として広がり、それは現在までも残っている。というか、100年経っても「新教育」として呼称されるあたり、デューイ以後は革新的な教育が行われていないのだろうか。
「新教育運動」自体は多岐にわたるが、それはデューイの言葉を使って一言で表すことができる。それは「教育のコペルニクス的転回」である。
「コペルニクス的転回」という言葉は各界で多用されているが、改めて説明すると、それまで信じられていた天動説に対して、地動説を唱えたコペルニクスを哲学者のカントがその著書の中で言及したのが語源と言われている。ざっくり言えば、「物事の捉え方がガラリと変わる」という意味である。
デューイは、それまでは「教師を中心」に語られてきた教育を、「子どもを中心」にして語り直そうと教育界に呼びかけたのだ。

ここまでざっくりと教育史を振り返ってみた。
そこで分かるのは、それぞれの時代で教育に課題があり、その課題を解決するべく代替案(対応)が提示されてきた、という構造である。これはそのまま現代にも引き継がれている。

日本の場合は、戦後は民主主義を作るべく学校現場が主体になって子どもの関心に沿った様々な教育実践が試され、その後、科学教育の重要性が叫ばれると教科学習を体系的に教えることが要請され、教える内容が過密であると批判されればゆとり教育が導入され、学力低下が叫ばれれば確かな学力が求められた。

このように現在でさえも大きな流れで教育を見れば「課題→対応」になっていることが分かる。

そして、本稿の主題である「もぐらたたき」がここで登場する。
つまり、「課題」が「もぐら」であり、それを「たたく」のが「対応」である。

現在の「もぐら」もたくさんあるが、分かりやすいところで言えば「GIGA端末をどうするか」という「もぐら」が顕著であろう。これにどう対応するかが現場での喫緊の課題だ。

さて、題名を繰り返そう。
「教育はもぐらたたきでいいのか」。

もちろん、もぐらをたたくことが、そのまま教育に要請されていた時代もあった。就学率が低い時代であるならば、「子どもたちを学校に通わせる」という課題に対応すればよかった。
経済が上向いている時代ならば、親の世代よりも高い学歴を目指せと獅子吼するだけでよかった。

しかし、現代はそうではない。
ポストモダンを経て、価値観が多様化している現在、教育学は目指すべき目標を失っている状態である。もはや「勉強して良い大学へ行ったらいいのだよ」なんて時代錯誤も甚だしいし、保護者も「先生のいうことを聞きなさい」なんてもう言わない。
社会には様々な価値観が現出し、絶対的な価値観を提示することは困難である。これを「規範が欠如した状態」とも言える。それについては、以下の記事でも書いているので参照願いたい。

教育は何のためにあるのだろうか。
この問いに真っ直ぐに向き合えなくなった時代に、教育は「課題ー対応」に追われて新しい価値を想像できていない「規範欠如」状態になっている。これが本稿の問題意識なのだ。

これについては教育社会学者である広田照幸は、教育学はこれまで、現場の問題に対応しようと提案し、解決していくということをしてきたが、それを「狭い円環を回っているだけ」と表現し、さらに「自分の出した毒を自分で中和する」という卓抜な比喩を用いている。さらに、「その先」について以下のように分析していて興味深い。

考えてみないといけないのはその先である。
学校内で起きているさまざまな問題が仮にすべて解決したとしよう。そこでは、われわれはどういう学校を思い浮かべれば良いだろうか。「いじめのない学校」「不登校の子どもがいなくなった学校」「勉強ぎらいの子がいなくなった学校」「校内暴力を起こしたり、校則を違反したりする子がいなくなった学校」・・・。仮に問題をすべて解決した後の学校は、何をめざすのだろうか。問題がなくなった後の学校に、教育学者は何を期待するのか。「〜がない学校」を理想とするのは、結局は、今ある学校教育に与えられている役割や目標を、無批判に維持するだけであるにすぎないのではないだろうか。

『教育学』 広田照幸著 岩波書店 p106

学校教育はどうしても「教師自身が受けてきた教育の再生産」になりがちである。教師は「自身の教育経験」というのを一番の根拠にして教育実践をしがちなのだ。これはある程度は仕方がないし、逆に時代ごとにコロコロと教育実践が変わってしまうのも問題に思える。それは、現代の学校教育が「〇〇教育」の流入で疲弊している現状を見れば明らかであろう。

しかし、広田が指摘している通り、学校教育が現在の社会を「無批判に維持する」ことにしか関心が向かないというのも、また問題なのである。これは「変化こそが目的」というポピュラリスト政治家の言明とは異なる。「変化しないことは悪なのだ。だから改革を!」という言葉に我々は散々痛めつけられてきた。

一方で、教育学自体に目指すべき方向性がなく、「規範が欠如」していれば、それは「権力者にとって都合が良い」教育が実践されても、それを「跳ね返す力」を持たないことになる。

「政治や経済の力」であっという間に導入されたGIGA端末に違和感を覚えた人は多かっただろう。コロナ禍ではあったにしろ、あれだけ一瞬のうちにタブレット端末が全国の学校に普及したのは「政治や経済の力」以外の何者でもない。実際、アクティブラーニングは、その理念が叫ばれて久しいが、現場の授業形態はあまり変化していない。思想家の内田樹の言葉を借りれば「教育というのは惰性の強い制度」なのである。

このままでは、教育は「権力者の理想を実現するための道具」に成り下がってしまいかねない。実際、現場の先生は「見事にGIGA端末を使いこなしている」。違和感を持って「使わない」を選択した教員は、「たくさんの予算をかけているのだから使え」という圧力に屈してしまわざるを得ない。学校での端末利用率を逐一委員会に報告して、その数値によって指導が加えられる現状ではどうしようもない。

繰り返そう。
教育は何のためにあるのか。

それは、「子どもたちの自然な発達に沿って、学習を支援するのだ。」

これは現代の教育学の流行とも言える言明だろう。しかし、ここまでの議論を踏まえれば、これがいかに空虚な言葉であるかは賢明な読者にはお分かりであろう。実は、これは何も言っていないのだ。

教育的関係には、権力の非対称性が伴う。これは、つまり、教師と子どもは対等ではないということだ。子どもと話すときに、膝をついて話を聞く教師の言動は、この権力性を必死に否定する身振りが感じられるが、この権力性は消すことができない。それは、どこまで行っても、学校での教育活動をデザインしているのは教師であるからだ。

だから、「子どもに主体的に学んで欲しい」も「子どもに価値あることを教えたい」も同じ権力構造で語ることができる。どちらも「教師の願い」だからだ。そこに子どもの意思は入らない。たとえ、「授業には子どもの意思を入れたい」と教師が考えたとしても、それさえ「教師の願い」なのである。

つまり、教師は学校で教育を行う以上、子どもに対して「方向づけ」を行なっていることになる。そして、その方向を示すことこそが、これまでに述べた「規範」なのである。

あなたは、子どもたちをどう育てていくのですか。

これがまさに現代の教育学の課題なのである。そして、これに答える暇を与えないことで利益を得ている人たちもいる。それは「教育を自身の理念実現の道具」にしようとする人たちである。今度も様々な形で「利権」が学校教育に関わりを持ってくるだろう。「新しい市場」としての学校現場は、マーケットとして莫大な可能性を秘めていることを、GIGAスクール構想は気づかせてしまった。

今や「ドリル教材」のデジタル化も進んでいる。
これは教育図書を出版する会社も笑いが止まらないだろう。もはや、紙を印刷する必要もない。データさえ作って、それを販売したらいい。輸送コストも要らなくなる(実はこれは、「2024年問題」として物流業界では大問題なのだ)。追加コンテンツでさらにお金を取れば、収益は爆上がりだ。

国際的な学力調査であるPISA(ピザ)を知らない人はいないだろう。しかし、PISAを実質運営している、イギリスのピアソンという教育出版会社を知ってる人は少ない。そして、このピアソンはPISAの発展に伴って莫大な収益を上げていることも、あまり知られていない。大規模調査を企画できるというのは、かなり美味しい。その対策を国家の教育行政に売り込むことができるからだ。

「なになに、PISAの成績が落ちたのですか?では、私たちが推奨する教育プログラムを導入してください。」

教育のマーケット化というのは、こういうことなのである。
もちろん、現在はベ◯ッセがその立場を取るべく頑張っているが、グローバル資本主義の力の強さは周知の通りであり、いずれ、ピアソンなどの大企業に日本の学校教育は飲みこれまてしまうかもしれない。

学校教育を狙っているのはマーケットだけではない。
過去を振り返れば容易に分かる通り、学校教育がその効果を最大限に発揮するのは「思想形成の装置」として機能することである。

歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは戦前の日本の「神道」を以下のように分析している。

一見すると、新旧のこの奇妙な組み合わせは、近代化の速習コースを受けようとしている国にしては、はなはだ不適切な選択に思えた。現人神?アニミズムの霊?封建制度の気風?これは近代の工業大国というよりもむしろ新石器時代の族長支配のように聞こえる。
ところが、これが魔法のように効果を発揮した。日本人は息を呑むような速さで近代化すると同時に、国家に対する熱狂的な忠誠心を育んだ。神道国家の成功の象徴として最も有名なのは、日本が他の大国に先駆けて、精密誘導ミサイルを開発した事実だ。アメリカがスマート爆弾を実践配備するよりも何十年も前、そして、ナチスドイツがようやく初歩的な慣性誘導式V2ロケットを配備し始めていた頃、日本は精密誘導ミサイルで連合国の艦船を何十隻も沈めた。このミサイルは、「カミカゼ」として知られている。

『21Lessons』 ユバル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 p183

経済の力や保守派の力は年々、力を増しているように思える。
これらの権力の防波堤の役割を担っているのが、まさに学校教育の最前線にいる教師たちである。僕はこの同志を増やしていきたい。

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