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コンプリートが不可能であるという、情報過多の時代におけるあらゆるカルチャーの一般的条件が、私がアニメの魅力について考えていくさいの推進力となったことは確かです。 2020/08/14

 金曜日である。Claudio AbbadoのCBS SONYのボックスセット、39枚の読み込みが完了した。次はHarnoncourt、なかなかの長丁場だ。そういえば今週はFGOの5周年で、イベントをライブ配信していたけれど、ファンの熱量がすごくて、コメントに「お金払わせて〜」っていうのがたくさんあった。無料イベントなのだけど、ファンにしっかり刺さっているというか、愛されているなぁ、という。コンテンツとファンコミュニティっていうのは、たくさんの作品を出版している出版社にとってもいろいろな可能性があるところだよなぁ、などと思いながら眺めていた。

 そんなこんなで、石岡良治『現代アニメ「超」講義』を読んでいた。ポストジブリから深夜アニメまで、という射程なんだけど、美少女ゲーム原作ものとかラノベ原作とかはほとんどフォローできておらず、熱心なアニメファンではないので「現代アニメ」をざっと概観したくて読んでみた。

 けれども難民アニメでは、「舞台の場所を訪れてみたい」という郷愁だけではなく、第1話の時点で「【悲報】残り12話!」と言ってみたくなるような、極めて形式的な側面がみられることが重要だと思っています。これは言ってみれば、現在のアニメがシーズンごとにめまぐるしく変わっていくという 「テレビ番組」としての条件そのものに関わっているからです。第1話の時点でシリーズの終了を想起 するのは、極めて形式化された喪失感であり、アニメの「番組」としての性質から新たな享受様式を生み出しているとも言えるわけです。
石岡良治『現代アニメ「超」講義』P.51

 日常系から発生した難民現象とか知らなかったのだけど、「○○ロス」みたいなもんの原点か、と。そしてそこからこの形式化された喪失感っていうのは興味深い、むしろお手軽に喪失感を求めている、みたいな逆転現象もあるのかもしれない。ある意味、安全で確実な喪失体験を、コミュニティで共有し共感できるというのまで含んでの体験価値なのかもしれないなぁ、などと思ったり。

 コンプリートが不可能であるという、情報過多の時代におけるあらゆるカルチャーの一般的条件が、私がアニメの魅力について考えていくさいの推進力となったことは確かです。アニメという「ユニヴァース」に様々な角度から切り込み、各自が「コンプ不可能なコレクション」を形成していくというヴィジョン。けれどもそれは恋意的なものであってはならず、一定の歴史性や社会との関わりなどについての展望を要するように思います。
石岡良治『現代アニメ「超」講義』P.303

 昔のオタクは網羅性、コンプリートすることが目指されていたけれど物理的に全てをコンプリートすることは不可能な世界になったとき、何をみて、何を自分の中で体系として位置付けていくのか、その「コンプ不可能なコレクション」という概念は、本でも映画でもあらゆることに当てはまる訳で、何を読んで、何を読まないのか、意識していかないと、と思ったけれど読みたいものから読んでいるから別にそんなに気にしなくても良いか。

 という訳で、本書でも紹介されてた「AIR」を見てみた。「もう、ゴールしてもいいよね」の元ネタ。時代を感じたというか、ゲーム原作なのであまりにも造られた物語なので昨日読んでいた「プレーンソング」とのギャップがすごくて楽しみ方のチャンネルみたいなものを切り替えるのにしばし時間がかかった⋯⋯。けれど京アニの歴史を遡るような体験はなんとも言えない郷愁を感じざるを得ない。そこには本当の喪失が起きてしまったから、なのかもしれない。

 冷えた白ワインで酔っ払ってさっさと寝た。

自分の好きなことを表明すると、気の合う仲間が集まってくるらしい。とりあえず、読んでくれた人に感謝、スキ押してくれた人に大感謝、あなたのスキが次を書くモチベーションです。サポートはいわゆる投げ銭。noteの会員じゃなくてもできるらしい。そんな奇特な人には超大感謝&幸せを祈ります。