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被害者意識と自分で考えない教育

最近になって、僕は自分を被害者・犠牲者に仕立ててしまってるんだなと気づいて。

とはいえ、傷ついているのにそれを誰もわかってくれなかったり、ましてや本人さえも気づかず手当もないまま放置されたら、そりゃあ苦しみ悲しみがこじれにこじれますわなあ。「オレは被害者だー!犠牲者だー!(`ω´ )」って、暴れたくもなりますよねえ。
そんなこじれてひねくれていじけた自分の気持ちを認めて受けとめつつ、同時に、どうするとその想いは満たされるかな、落ち着くかなと。自分へのケアをあれこれ試している真っ最中。

そんななかで見かけたのが、アスペルガー症候群&ADHDの夫さんとの夫婦の関わりを動画とブログでアップしているAlan and Sakuraさん。今の自分にとても気づきがあったのよね。

日本人は、人に教わったりアドバイスを求めることを必要以上にしてしまう傾向があると思います。

自分の考えに自信がない、失敗したくない、単純に分からない…など様々な理由があると思いますが、いずれも「考えない」のは、知識の詰め込み教育が大きく影響しているでしょう。

私はアメリカに留学をした時、こんなにも日本と授業の雰囲気も先生の教え方も違うんだと驚きました。
〇〇の言う通りにしたからうまくいかなかった
〇〇本は参考にならない
〇〇のせいだ!

考えることを放棄すると、延々に「自分が納得する答え」は得られません。

「自分の人生」をどうしたいかは、トライアンドエラーをして自分で答えを探していくもの。

他人が知っているはずがないのです。

◆◆◆

自分で考えず、まわりに合わせ、立場を重要視する教育を施す。それは言い換えれば、私という自我を無視し、まわりに過剰に適応させられるということ。その結果、なにかのきっかけで精神に不調をきたした場合、その状態からよくなるにはどうしたらいいかを自分で考えられないがために人生が詰む。
本人にしてみれば、必死にまわりに合わせてきたのになんで!?どどどどゆこと(°_°)!?って混乱するばかりで。教育の副作用として、被害者・犠牲者が生まれやすい構造になっているんじゃないかな。

僕もずっと自分で模索せずに、治し方は?答えは?具体的な方法は?とインスタントな解決法を求めてさまよっていた。憧れた人の出した答えにのっかって、これで大丈夫と思ったりもした。けれど、それは他人が納得した答えであって、自分に合っているとは限らない。自分で考えないから、自分に合っているかどうかも分からない…( ゚д゚)…という半狂乱状態に長いこと浸かっていたなあと。
今だって、どれくらい自分で考えられているだろう。けれど、以前より少しずつ、私はどうしたいか?私はどう感じているか?私はどう思っているか?にフォーカスをあてられるようになっていると思う。

徐々にそうなれてきているのは、私の努力やがんばりではなく「聞いてくれる人」の存在が大きいと思った。カウンセラーや同じ当事者たち。あなたはそう感じてるんだね、キミはそう思ってるんだね。あなたはどう思う?あなたはどうしたい?あなたの気持ちは?そう聞いてくれ、受け止めてくれる人のおかげで私は少しずつ私という自我にスポットライトを当てられるようになっていったのかな。

それでもまだまだ私自身を感じたり表現するときに不安や恐怖がつきまとうことも多々ある。これがあるから子供の頃は口に出せなかったんだな、行動できなかったんだなと今になって気づける。そして、聞いてくれる人なんていなかった、だから、探そうともしなかったんだなあと。

◆◆◆

考えない、考えられないのではなく、そうさせられてしまう構造・システムの中にいるということ。そのひとつに、個人の自我をなかったことにする教育があるんだろう。この私がなにを感じているのか、どう考えているのか、求めているもの願っているものはなにかが放棄される教育。
個人の自我と社会性を持った私の両輪で人間はバランスをとって生きていけるように思うんだけどなあ。

構造・システムの存在に気づくと「〇〇のせい」と、ここでも被害者・犠牲者になって無力感に陥ってしまうこともあるかもしれない。僕もよくそうなる。あまりにも対象が大きすぎて、広すぎて自分にはどうすることもできないと思ってしまうから。

ただ、その先もあるのかなって。私を縛っているものの存在に気づき、認め、これまで全く考えなかった、考えられなかった私はどうしたいのだろう?私はなにを願っているのだろう?それらを言葉にしていくこと。
そして、そこに少しずつでも可能な限り接近していくこと=生きてこられなかった私を生きること=私自身をよろこばせることが、このどうしようもなく理不尽でやりきれない世界で生きていくささやかな希望になるんじゃないかな。


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