新聞配達

私は小学生の頃、市営の団地に住んでいました。

団地には、同じ年ごろの子供がたくさん住んでいて、学校から帰って来てランドセルを置き、外に出れば、誰かしらひとりくらいは遊び相手がいました。
学年に関係なく、友達がたくさんいました。
中でも、私が1番大好きだったのは、2つ年上ののんちゃんでした。

のんちゃんは、団地の周辺にある一軒家数十件に、毎日夕刊を配達していました。
遊んでいても夕刊配達の時間になると、お別れをしなければなりませんでした。
別れがたい私は、いつからか、その配達に同行するようになりました。

本当は夕刊を積むはずの自転車の後ろの荷台に私が乗り、新聞はかごに入れて。
ひとりで配達するときには、1件1件の前で自転車を停めなければならないのでしょうが、後ろの私がさっと自転車を降り、新聞を受け取りポストに放り込めばいいので、二人だとすぐに配達も終わるし、その分一緒にいられるし、私にとっては遊び感覚でした。
遊び感覚とはいえ、仕事です。学んだこともありました。
新聞をポストに入れる際、向きに気を付けるということ。夕刊なのでチラシなどはなく、新聞も薄いので、縦長に細く折ったあとに、それをさらに半分折にしてポストに入れるわけですが、
ドアポストに入れる時には、折口側をポストに入れるということ。
ドア付ではない上から開けるタイプのポストには、折口が上側になるように入れるということ。
お客さんから取り出しやすいように、です。


のんちゃんが小学校を卒業するころ、のんちゃん一家は家を建て、遠くへ引っ越してしまいました。



月日が経ち、中学3年生になった私は、「高校生になったらすぐにバイトをするぞ!!」と決めていました。
私の家は母子家庭でした。そんなに貧乏ではなかったと思いますが、母が恩着せがましいひとだったので、自分が使うお金を、早く自分で稼ぎたかったのです。

私の入学した高校は、公立の進学校でアルバイトは禁止でしたが、入学前に私はもう朝刊を配達をすることを決めていました。


家から新聞店までは自転車で15分くらいでした。

まずは新聞の間にチラシを挟み、配達する順番に新聞を重ねていきます。
普通の新聞の他に、スポーツ新聞や経済新聞などがあるわけで、スポーツ新聞だけをとっている家もあれば、1件で3種類の新聞をとっている家などもあります。
順番や部数を間違えると、スポーツ新聞をとっていない家にそれを配達してしまう、などという失敗が起きてしまいます。

休日前のチラシが多い日は、いつもの2倍くらいの厚さや重さになり、自転車にうまく積むことも難しく、自転車を漕ぐのも辛いものでした。

私が配達していた地域は、新聞店からさらに15分ほど離れたところがスタート地点でした。最初に遠くへ行き、だんだん新聞店へ戻っていくコースでした。

早朝なので寝ぼけていたり、チラシが多くて重い日などは、自転車をうまくとめられずにひっくり返してしまい、新聞が散らばってしまったり、そのせいで新聞が破れたり汚れてしまったりしました。
雨の日も、今のようにビニールにきれいに入っていたりしないので、濡れてしまってインクがぼやけたり、ポストに差し込むときに破れてしまったりしました。後で苦情がきて、きれいな新聞を社長が再配達してくれたりしたことが多々あったことと思います。

だいぶ後半まで配達してから、どこかの家を抜かしていることや、最初に組んだ順番が間違っていることに気付いたときなどは、もうパニックでした。
戻っても、もう新聞をポストからとってしまっている家もあり、どこから間違っていたのか確認が難しかったのです。
そして何より、そんなことをしていては、学校に間に合わなくなってしまうのです!!

私は寝不足と疲れで、授業中に起きていることなど出来ない毎日でした。
母は、自分が学生の頃に勉強が嫌いであまり成績が良くなかったらしく、私の成績が悪いことについては、それほどうるさくなかったことは幸いでした。

寝坊してしまう日も、もちろんありました。
当時は家電しかありませんので、けたたましい電話の音で、母も一緒に目を覚ますことになります。
慌てて着替えて家を出て、いつもより遅い時間に配達に行くと、外まで出ていてイライラした様子で新聞を待っている方も何人かいました。
電話で起こされたときに「今日はこっちでやっておくからいいよ。」とお休みをいただけることもたまにありました。


私は高校で、部活もやっていました。
運動部のマネージャーで、それをすることも中学生の頃から決めていたので、入学してすぐに、迷いもなく入部しました。

高校では、運動部はたいがい大会の前に合宿を行っていました。学校の敷地内に合宿所があったのです。
私の入っていた部も例外ではなく、ある日、1週間程度の合宿をするという知らせがありました。『参加しない』などという選択肢は与えられない様子でした。
私は困ってしまいました。
1週間も新聞配達を休むわけにはいかないし、合宿にどうしても参加できないと言えば理由も話さなければならないだろうし…

考えに考えて・・・・・・

私は合宿中も新聞配達を頑張ってやることにしました。

マネージャーの先輩は、3年生はいませんでしたが、2年生はなぜか5人もいました。1年生は私ともう1人、さっちゃんの2人でした。

私はさっちゃんには、私が新聞配達をしていることを話していました。

合宿中のマネージャーの仕事は、
授業が終わってすぐに合宿所に行き、夕食と次の日の朝食の材料の買い出しと、夕食の調理、
手が空くと、グラウンドに出て、通常のマネージャーとしての仕事をし、
夕食後に調理器具や食器の洗浄などの後片付け、お風呂にお湯をためて部員が全員入った後にお風呂場の掃除、部員のユニフォームの洗濯などなど。
全部の仕事が終わってから、自分達も先輩の後にお風呂に入ると、布団に入れるのは早くても12時を過ぎていました。

私はドラえもんのように、1人だけ押し入れで寝ることにしました。先輩には『寝相がひどく悪いので。』と言い訳しました。
それで、もし先輩が夜中にトイレに起きたり、朝起きて私がいなかったとしても、すぐに不思議がることはないだろう…と思いました。
万が一の時には、トイレに行ってるとか、朝の散歩をしてるとか、ごまかしてほしいと、さっちゃんに頼みました。

夏、まだ星がキラキラしている時間に、わたしはこっそり合宿所を抜け出しました。
学校は、私の住んでいた団地から自転車で15分くらいのところにあったので、つまり新聞店には30分ほどで着くことができました。

いつもより急いでチラシを新聞に挟み、急いで順番組みをし、急いでペダルをこいで、小走りにポストに向かいました。
配達が終わると、また30分かけて学校へ戻り、押し入れにそっと入って寝ていたふりをしました。

マネージャーは朝は5時に起床し、朝食を作るので、5時前には戻らなければなりませんでした。
滑り込みで間に合ったような日もありましたが、先輩たちには最後の日まで気付かれずにすみました。
起きた瞬間にはいつももう目はパッチリ!そして汗ばんでいたりしましたが…

朝食後はもちろん食器洗い。
それが終わると登校し、昼休みには合宿所で、配達されたお弁当の配膳、片付け、部屋の掃除…

もちろん、そんな生活で、授業中起きていられるわけなどありませんでした。


合宿が終わった後も、変わらず毎朝新聞配達をし、学校で授業を受け、部活をして帰る毎日。寝不足と疲れが続いたまま、私は自転車を漕ぎながら寝てしまえるほどでした。
もう無理かも…と思いかけたころ、母が
「お前がちゃんと起きるかどうか気になってぐっすり眠れない。」
と、言い出しました。
私はこれ幸いと
「じゃあもうやめるよ。」
と珍しく素直な返事をし、母から新聞店に電話をかけてもらい、5か月ほどで新聞配達を辞めたのでした。



いつか、この話を部活の顧問の先生に話して聞かせるつもりでした。
「なんだお前は、そんなことしてたのか!わっはっは!頑張ったな!」
きっと、そう言ってもらえると思っていましたが、
話す前に、先生は亡くなってしまいました。



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