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ステルラハイツ6389

 たまこは夢の中にいる。

 青い碧い海、それとも空だろうか、両腕いっぱいに掻き分けながらその中を進んでいる。聞き覚えのある声が呼びかける。帰ってらっしゃい、戻っておいで、それでもそのまま進み続ける。その先には明るい光が見えているけど、どこまでいっても青の中にいる。

 呼吸は苦しくないから、やはり空を進んでいるのかな。そう思った瞬間、隣を生き物が並走するうねりを感じた。いつの間にか、イルカの群れに囲まれている。イルカたちはたまこの周りを交互にぐるぐると回りながら、頭の奥に響く音で会話をしてる。

 わかろうとしなくても、体に直接響いてくる、この子たちは今楽しんでる、そしてわたしも楽しい、たまこは久しぶりに笑った。心から笑った。そしたら隣のイルカと目が合って、イルカも笑っていた。

 目を覚ますのがもったいないくらい心地よい夢だった。目を覚ましても体がまだ浮かんでいるような心地がした。そのまま余韻を楽しんでいると、ふといつもと違う匂いがすることで、たまこはステルラハイツを飛び出してきたことを思い出した。


 母からの小包と、珍しく直接的なメッセージを貰って、たまこは何だか居ても立っても居られずに、その日のうちに実家に帰ることにした。まだベッドに転がっていたミミ子に留守番を頼み、彼奴には好きにしてていいよと声をかけて、日が暮れる前に電車に乗り込んだ。

 途中の駅から実家に連絡は入れると誰も電話に出なかったが、まあいないことはないだろうとそのまま旅路を急いだ。行く先は実家とはいえ、電車を乗り継いでなんやかんやでその日旅、ひとりでどこか遠くへ行くこと自体が久しぶりだし、それで少し興奮していたのだろう、過ぎ去っていく景色を見つめながらたまこは涙を流していた。

 何かが過剰に満たされていた。それはエネルギーを発散し切れていないということかもしれない。過ぎ去る景色に向かってバカヤローと叫びたくなっても窓は開かない。たまこはただただ無言で、ボロボロボロボロ涙を流していた。


 家へ帰り着くと、母はたまこを見て驚きもせずに「なんだ、帰ってきたの」と言った。呼ばれて帰ってきたつもりのたまこは少し肩透かしを喰らったが、夕飯のテーブルにはたまこの好きな鶏の唐揚げが沢山作ってあったから、案外母は待っていてくれたのかもしれない。

 遅れて帰ってきた父は、母とは対照的に大げさな位に驚いてたまこの帰省を歓迎した。歳の割りに量の多い黒髪が自慢だった父もいつの間にか白髪が目立つようになっていた。

 たまこは改めて、こうして実家の食卓につくのが大げさでなく久しぶりだということに気付いた。それだけこれまでの間はたまこの身の回りで、めくるめく日々がめまぐるしく過ぎていた。

 翌朝起きると、たまこがコーヒーを淹れた。

 ああそういえば父も母もコーヒーが大好きで、朝一から何杯もお代わりをするのだった、とふと思い立ち、いつもと違う淹れ方をする。

 挽いた豆の粉を分量のお湯と一緒に水筒に入れて、振る。腰を入れて情熱的に。しばし放置して、それからフィルターで漉す。
 腰を入れて情熱的に、のくだりでは、最近フラメンコを始めたと言う母がなかなかな腰つきで振るい、その姿はオリジナルを彷彿させて、つい笑う。
 この淹れ方はイタリアでミーコおばさんの連れ合いから教わったのだ、と告げると母はそのことには特に関心を示さず、たまこの顔を見つめて、

「あなたって昔から、自分のこと何も話さないのよね」

と急に少し寂しげに言った。

「そういえば、ミーコからは連絡ないの?」

 母の質問にたまこは首を振る。母はさほど心配なそぶりも見せずに、まあ元気でやってるとは思うけど、とつぶやいた。たまこも、どこかで元気でやっているミーコおばさんを思い浮かべようとするも、何故だか今朝に限っては顔が出て来ない。

「ミーコおばさんの写真ってある?」

 母に聞くと、何冊かのアルバムを持ってきてくれた。そこにはたまこが産まれた時から高校を卒業するあたりまでの写真が収められていて、そこには沢山の若かりしミーコおばさんがいた。たまこはその中から目を引いたミーコおばさんの写真を一枚抜き取って仕舞う。それは確かにあの17の夏、イタリアを旅した時にたまこが撮ったものであることを覚えている。それから、たまこと母は写真を見ながらいろいろと思い出にまつわる話をした。

「たまこ、お金は大丈夫なの?」

 話の中で、唐突に母が母らしいことを聞いてきた。たまこはステルラハイツで暮らし始めてから外に働きに出ることはなかったが、ミーコおばさんがいる時にはバイト代として少しのお金をもらっていたし、今では住人の家賃や滞在費がある。それに、これはミーコおばさんから頼まれていたことでもあるが、時に欲しいという人が現れてはミーコおばさんの作品を売ることで現金収入を得ている、と告げた。病院で働いていた頃の貯金も少しずつ切り崩している、というのは言わなかった。父は「お金は使わないと入って来ない」と言うのが口癖で、その裏で母がやり繰りをしていたから、幸いたまこは実家がお金に困るというところを見て来なかったけれど、父もそろそろ仕事のペースを落とすだろうし、もう母に心配をかけるわけにはいかない。

「あんたはどこでも働こうとしたら働けるでしょ。」

 確かにこの時勢、薬剤師の免状を持っているたまこは調剤薬局にしろ病院にしろ仕事を探せば見つからないわけではない。母自身は父の仕事を手伝いたくて、自分が医師や看護師の資格を持っていないことを悔やんだ時期があると言う。だけどたまこは、また白衣を着てアンプルや錠剤や粉薬を扱う職場に戻る気にはなれなかった。

 職業に貴賤はない、というのは父からよく聞かされていた言葉。それならば、母のような専業主婦は立派な職業のひとつだ。
 誰かや何かの世話をして育てながら家を守る、それは人間として生きる上で本来おろそかにできない立派な仕事。お金を得ることから焦点をずらしてみるとそれが明らかになる。

「じゃあ、たまこは誰か世話をして連れ添う人がいるの?」

 そう聞かれてたまこはぐっと言葉に詰まった。母も父も歳をとっていたが、それはたまこも同じことで、気付けば30代も半ばを越して、いつの間にか両親から結婚について突っ込まれてもおかしくない年齢はとうに過ぎているのだろう。ステルラハイツでは周りにも未婚の者が集まっていたし、この数年はそんなことを意識することもなく、ひたすらに日々を暮らしてきた。こうして母と話してみて、初めてたまこは自分が結婚するということをうっすら意識してみたが、相手の顔はのっぺらぼう。彼奴の顔が浮かぶと、そんなんじゃない、とすぐに心が言った。

「結婚って何なの?」

 たまこは母に聞いてみた。母はふーっとため息をつくと、答えた。

「その答えじゃ相手はいないみたいね。そんなの、人それぞれなんじゃない。ただ、お母さんとお父さんのことで言えば、出会ってそれからずっと一緒に居るってことよ。たまちゃんも産まれて、育って、旅立って、いろいろあって、ジジババになって、それでも一緒に居るってことなのよ。」

 母は自分に言い聞かせるように答えて、それから、首を傾げてこう言った。

「まあ、お母さんはこうして生きてきて幸せだから、あなたもそうしたら、って考えるけど、ミーコみたいに、結婚にこだわらない生き方っていうのもあるわよね。」

「ミーコおばさんも始めからそう考えてたわけじゃないと思う。ただ、きっと恋してたかったんじゃないかな。」

 たまこはどこかで元気でやっているミーコおばさんを思い浮かべた。その顔はさっきの写真の顔だった。

「あらやだ、お母さんだってお父さんに恋してるわよ。ただ、そうね、ミーコが求めるものとは違うのかもしれないわね。」

 母と居ると必ずミーコおばさんの話になる。そして二人ともミーコおばさんに会いたくなっている。

 その日の夜のことだった。
 たまこと母の二人で作った夕飯を食べ終わり、みんなで居間でテレビを観ていた時に、電話が鳴った。たまこはなぜかその電子音できのうの夢に立ち返る。イルカたちが、海の向こうからの電話だと教える。

「あら、国際電話だわ。」

 電話のディスプレイを見た母がつぶやき、受話器を取って「もしもし」と日本語で応える。相手も日本語を話しているようで、母はハイとかエエとか相づちを打ちながらその話を聞き、一度だけ「ええっ?」と驚いた声をあげて、あとはまたハアとかエエとか応えている。それは5分も続かなかった。母は最後に締まった口調で「わかりました、連絡をお待ちしてます。」と答えると受話器を置いた。そして、たまこと父の方を向き直すと眉間に皺を寄せた。

「ミーコが、行方不明になったって。」

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