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指から感じた「当たり前」

この間、包丁で指を切ってしまった。
それは、温野菜にして食べようと思っていた人参を輪切りにしているときのこと。乾燥してやや水分が抜けた人参は、全体的にハリがなく、包丁で切るときも「パリッ」「ストンッ」というような清々しい感触ではなく、「グニッ」「ズトンッ」というような抵抗感のある感じだった。だから、自然と人参に押し当てる刃に力がはいってしまう。
たしか、あのときは何か考え事をしていたのだ。その、包丁から気が逸れた一瞬のうちに、人参と左手薬指の指先を同時に切ってしまう。「痛い」という感覚はすぐに訪れたけれど、途中で人参を切る手は途中で止められないものだから、包丁の刃先は撫でるような滑らかな動きで上から下に指を切り込んだ。

「イッタ」と小さく声を上げてからキッチンを離れ、すぐに消毒液・絆創膏を用意する。傷口は左手薬指、爪のすぐ右横。そこから指の腹に向かって5mmほどの切り込みが入り、思ったよりも深く切ってしまった模様。みるみるうちに赤い血が湧き出て、放っておけば指から血が滴り落ちてしまいそうな勢いだった。まずはその血をティッシュで拭き取り、消毒液をかける。そうして傷口を消毒をしてから、ティッシュで患部を強く押さえ止血した。数十秒程度ではなかなか血が止まらず、そのまま1~2分押さえていると、とりあえず傷口はふさがったようだった。「止血すれば傷って本当にふさがるんだ」と、よくできた体の仕組みに思わず感心してしまう。

こんなにザックリ指を切ったのは久しぶりで、ズキズキと痛む指先に気持ちがしょげる。料理を続ける気も失せてしまった。そこで、このズキズキからいったん逃れるために、スマホでSNSをチェックしたり、記事を読んだりして気を紛らわせる。その日はそうやってダラダラしたあと、しぶしぶ料理を再開し、ひとまず夕飯の準備を終わらせることができたのだった。

面倒なのは翌日からだった。絆創膏を貼った薬指は、何をするにも邪魔になる。お皿を洗うたびに絆創膏は貼りなおさないといけないし、仕事でパソコンのキーボード操作をする際も大変煩わしい。なんとなくこの薬指を使いたくなくて、他の指でキーボードを押すと誤操作になり、何度も誤ったキーを押下することになった。
そんなとき、ふとこの指のケガが1週間早かったら…ということを考えた。先週、わたしは知人のワンマンライブのバックバンドのメンバーとしてライブに参加していた。もし先週この左手薬指をケガしていたら、ライブパフォーマンスにも大きな影響が出ただろう。左手はベースの弦を押さえる重要な手だし、なかでも薬指は使用頻度が高い指でもある。それなのに、自分の手指に何の気も払わずライブまでの日々を過ごしていた、そんな自分が今さらながら恐ろしくなった。

もっといえば、今日も明日も明後日も、当たり前のようにこの両手両指が使えると信じてやまない自分がいることにも驚く。もちろん、ケガをしないようにと全方位に注意を払いながら生活していたら、何もできなくなってしまうけれど、それにしても現在の自分の「当たり前」が、明日以降も続くと当たり前に思っていることに軽い衝撃を受けたのだった。
だからわたしは、今日こうやってキーボードを打ちながら、noteの記事を作成できている事実に少しだけ感謝している。左手薬指にはまだ目で見て分かるほどの切り込みが入っており、完全に傷が治ったわけではないけれど、日常生活で痛みを感じることはほとんどなくなった。こんな小さな傷で日々の「当たり前」が失われること、こんな小さな傷を負わないことで日々の「当たり前」が続くこと、それがいまだに不思議でならない。

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