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再受験医学生がママになった話

2024年春。私は母になった。医学部を再受験する前から結婚していたため、医学部に行くか子供を持つかどちらかを天秤にかけて再受験の道を選んだが、結果的に両方の夢が叶うこととなった。今夫は育休を取ってくれているがそれも今月末に終わり、来月から仕事に復帰する。この忙しくていとおしい時間に抱いた気持ちを忘れないように書き留めたい。



私を取り巻く家庭環境

私の家族構成はまあまあ特殊であり、まず兄弟が4人いる6人家族だ。祖父が医師で開業医であり、父も医師、母は保健師という典型的な医師家庭である。私は2番目に生まれたが、姉は助産師、妹は薬剤師、弟は医学生をしている。私は再受験で私立の医学部に通うほどなので裕福な家庭であるのは間違いない。
医学部の受験では二次に必ず面接があり、よく聞かれていたのが現役時も医学部に行きたかったのか?という質問だ。私は高校1年生の時、一度だけ志望学部を医学部にしてみたことがあるが、たしか同じく医学部志望をしていた女子がとても真面目そうな見た目をしていたから自分はそういうキャラじゃないかもと思って早々に諦めた。血とか見るのが怖いし、親が手に職とかいうけど流されて看護学部に行くのも癪だし…と理系に進むことにした。
小中高大とすべて国公立に通い、大学は県外だったが1年目は格安の大学寮に入ったし(4畳くらいの衝撃サイズ)、兄弟の中ではお金がかかってない方だと思っていた。姉は助産師の資格を取るために院に行ったし、妹は医学部志望だったので予備校で1浪して私立の薬学部に行ったし、私が就職したときに弟はまだ浪人していた。結果、3浪して国立の医学部に行ったがこれも医学部に行く原動力になった。
私の兄弟は世間的には優秀な方みたいだったが、兄弟の中で私が一番の進学校に行ったし、一番勉強が出来ると思っていた。実際に、公立の小中学校では特に必死で勉強しなくてもいつも90-100点で無双していたし、がり勉そうな見た目の人よりおおざっぱで暇になるとすぐ授業中に隣の人に話しかけてしまうような私の方が賢かった。どちらかというとギャルとかヤンキーよりだった自分は県内でトップ層の高校に受かった時も見た目のせいで同じ中学校出身の同級生に結果を聞かれず、入学してからめちゃくちゃ驚かれた。勉強出来なさそうだから落ちたと思われていたらしい。
そんな見た目だから小学校でも中学校でも優等生扱いされていなくて、でも実際は勉強に苦労したことがなかったからそのギャップでしんどかった。好奇心旺盛な子供だったので習い事もいくつも掛け持ちしており、そして器用貧乏だったので書道で段をとったり、絵画で入選したり、ピアノコンクールに出たりしていた。水泳もしていたので一応4泳法も泳げるし、新体操と体操を習っていたので体は柔らかく、跳び箱やマット運動もそれなりに出来、英会話教室にも行っていたのでそこそこ英語は出来た。学習塾も自分から言い出して小学4年生から通っていたが別に中学校受験をしたかったわけでもなく、すべてにおいて中途半端な感じではあった。
そして、こういう人は公立の学校にはいないのでちょっと変わった人ではあったと思うが、おおざっぱでおおらかだったので誰とでも話せる人ランキングみたいなのには入っていてそこそこ友達もいた。
いつも自分の身の丈に合ったところにいないなという感覚は常にあって、それによって生きづらいと感じている時期は長かった。
家族には内弁慶と言われていて外面がめちゃくちゃいいけど無理して合わせていたり必要以上に環境に適応するから家ではいつもイライラしていた。
大人になってから自分の能力や周りとの距離感が分かって気持ちが落ち着き、家族とも仲良く出来るようになったが、実家に全員いたときは頻繁にけんかしていた。

社会人生活で感じたこと

私はそんな感じでしんどい時期が長かったので社会人になっても自分に自信が持てなかった。夫とは社会人2年目に結婚し、共働きで仲良く過ごしていたが常に何者かになりたいという気持ちが強かった。一緒に転職して都会に行かないか?と聞いたこともある。働いていた会社でも予防医療系の仕事をしていたのでその関係で健康検定というものを受験させられた。生命科学科卒だし、実家も医療系だし予防医療のことを学ぶのはとても楽しかった。会社は健診受診率をどうしたらあげられるか、とか健康教室を実施した結果、検診結果がどう変わったかとかそういった分析をしていた。仕事で有用な人材になるべく予防医療や統計を学ぶ中でやっぱり勉強することが好きだし、何かのスペシャリストになりたくなった。世の中は男女平等といいつつも働いていると若い女ということと、たぶん害のなさそうな自分の見た目のせいで舐められることも多かった。一緒に働いている時短勤務の女性もお子さんがいて仕事が私の数倍出来るのに働ける時間が短いというだけでその枠にいるというのがなぜか悔しかった。時短の男性社員というのは見たことがなかったし。この頃は女性というだけで結婚したら名前を変えて当然な雰囲気とか、若くして子供を持つことが勝ち組で子供が小さいうちは時短勤務とかパート社員だよねみたいなのがすごく嫌だった。このまま会社員を続けていたら私も同じルートを辿るのかと思ったら平凡で退屈で自分はコンプレックスを持ったまま家庭に閉じ込められてしまうのではないかと感じていた。今思えばそういった王道のルートを辿ることも幸せの一つなんだと素直に思えるが、自信がなかった私はその選択が出来なかった。


医学部受験時代の思い出

そうやって常に何者かになりたかった私は自分が興味があった公衆衛生を勉強したくなり、いろいろと調べ始めた。最初は一番身近だった看護師の資格から調べ始め、教育訓練給付金の対象になる資格を探していたら保健師の資格も入っていた。看護師の資格だけなら専門学校に3年行けば取れるが保健師の資格はそこから2年間、院に行く必要がある。大学でも探せば4年で取れるところもあるが今いる県から遠く離れた県になる。そうやっていろいろ調べているうちに医学部学士編入試験というものがあるというのを知った。おおざっぱに言えば大学を卒業している学士の人は医学部の2年次に編入できるよ、という試験である。大卒だった私はそれがとても魅力的に見えたし、日程が被らなければ全国各地の国立大学を何校でも併願出来るというのは大きなメリットだと思った。
医学部受験を考えてからまず夫に軽く話し、医師と保健師である両親に相談したところ、金銭的にサポートしてあげるよという言葉を貰い、本格的に勉強を始めることにした。私が受験を決意した頃、3浪していた弟が国立医学部に追加合格し、私より偏差値が10下の高校を出ている弟がいけるなら私もいける、と思った。弟はもちろん努力家でその高校からほとんど出ない国立医学部進学者だったので、地元の新聞に載るニュースになっていた。(それだけで新聞沙汰になるのおもしろすぎると家族ラインで話題になった。)
受験大学を決めるにあたり、夫に学士編入試験は全国どこにでも行く可能性があるが、どこまで許容してついてきてくれる?と聞くとどこでもついていくよと言ってくれたので北は北海道、南は長崎まで受験することになった。1年目はどこにも筆記が通らず不安になったため、資金援助してくれていた両親にも了解を得て私立医学部も併願することとなり、2年目は学士編入試験は2校筆記に通ったが面接に通らず、私立医学部は2校筆記通過してそのうち正規合格をくれた大学に進学することとなった。

大学入学後

正規合格を貰うまでは本当に合格できるのか本当に不安で何度も何度も不合格を突き付けられ夜眠れなくなった。一日中勉強していて背中が痛すぎて整形外科に通っていたし、睡眠薬も出してもらって何とか寝ている状態だった。それでも諦めずに結果を掴み取れた自分をほめたいし、二度と医学部受験はしたくないし、人にも安易に勧められない。合格後に入学金を払ってもらったのに私立医学部なことに急に絶望を感じ、精神的に不安定になって辞退する、出してもらったお金も返すからと大泣きしていたこともあったので受験は本当に人を変える。母親に「医学部に合格するなんて早々出来ることじゃないんだから」となだめられ、気を取り直して無事に入学した。
合格した大学は夫住んでいた県とは異なる県だったので、転職してついてきてもらう形となった。普通、結婚した配偶者が医学部に行くとか言い出したら離婚してもおかしくない案件だと思うのでほんとに夫には感謝しかない。
入学後は医学部の勉強もやりたかったことなので楽しく、年の離れた同級生に仲良くしてもらって基本的に幸せに過ごしていた。バイトも2つ始めたし、充実した日々を送っていたが、私は欲深い人間なので子供が欲しくなった。合格が決まった後は、卒業後とかになるのかなと思っていたがいろいろ勉強していると高齢出産のリスクが気になる。そして、Xなどを見ていると時々医学生でママをしている人を見かける。医学部に入る前からママだった人と、入ってからママになった人どちらも大変そうだが上手く両立しているように見えた。私は石橋をたたくタイプなので大学の先輩にどの学年が一番出産に適しているか情報取集をして妊娠時期を選んだ。

妊娠生活と産後


うまくいかない可能性も考えていたが運良く自分が考えていた最適な時期に我が子がおなかに来てくれ、そして特に大きなトラブルもなく妊娠時期の試験をすべてクリアし無事に進級したうえで出産した。つわりもあったし、体重が増えて重心が変わり、座ると尾てい骨が痛いとか妊婦あるあるは一通り経験した。でも、妊娠中に血圧が高めになった私にカリウム多めの食事を作ったりしてくれる夫のおかげで無事に乗り越えられた。それだけじゃなく妊娠してから毎日車で送り迎えをしてくれていた。それ以外に、大学や両親、義理の両親にも協力を仰いで環境を整えていたが、それにしても本当にうまくいった。
産後は同じく妊婦だった姉と母、夫が手伝ってくれて大人4人体制で新生児の世話をできた。父も時々様子を確認し、だっこしてくれた。
医学部は臨床科目など受講科目はすべて必修、そして私が前いた理系の学部とは比べ物にならないくらい勉強量が膨大だった。テスト期間の十分な勉強時間を確保するため、夫が2か月育休を取ってくれた。男性の育児休暇取得率が上がっているとはいえ、数少ない育休取得者であると思う。夫の会社では2人目だったそうだ。育休に入った夫は本当によく赤ちゃんの面倒を見てくれた。生まれて2,3か月を面倒見てくれたのだが、この時期の赤ちゃんは夜中に1度や2度、目が覚めてしまう。普通に育休を取っている母親ならこの時間帯を全部起きて授乳している。しかし、勉強に関して寝不足状態でとてもじゃないが頭に入る自信がなかったし、夫がすべて対応してくれていたのでそれに甘えた。夜間授乳を全部夫にさせるなんて前代未聞なんじゃないかと自分でも思う。自分の経歴もイレギュラーだが、夫も相当いい意味で外れ値の存在だと実感した。夜間授乳をしてくれるだけでも有難かったが、私が帰ってくると抱っこ紐に赤ちゃんを入れながら夜ご飯まで作ってくれていた。大学で搾乳する必要があり、お昼を買って食べる時間がない私におにぎりまで握ってくれた。搾乳しながら片手で食べれるように。何から何まで男女逆なら完璧なんじゃないかとすら思った。一応出産したのは私なので生んでてよかったと思った。そうじゃないとバランスが取れないので。
怒涛のテスト実施期間は夫の母も来てくれて赤ちゃんと3人で実家の使っていないマンションに移動し、完全に一人になれるようにしてくれた。一応私も赤ちゃんに朝一で授乳し、おむつを替え、お風呂に入れたりはしていたのでその分の時間も勉強にあてれるようにしてくれた。赤ちゃんと完全に離れるのは産後初めてのことだったのであのすべすべでいい匂いのする赤ちゃんが恋しくて写真を眺めながらテスト勉強した。1週間あったテスト期間に月齢フォトを取りたかったので1回会いに行った。勉強もギリギリだったがすべて通ったはず。
テスト期間もたくさんの協力のおかげで無事に終わり、二人とも完全にお休みになった。赤ちゃんは2か月でこども園に内定したので慣らし保育をしているが、土日など一緒にいられる何気ない時間を楽しんでいる。私がのんびり赤ちゃんのお世話をしていると夫は夜ご飯を作ってくれていて、それが野菜も肉もスープもついているフルコースなので本当にお互い生まれてくる性別を間違えている気がする。というか、夫は働いてもいるのでほんとに出来すぎている。こんなに自由にさせてくれる配偶者はなかなかいないだろうし、メンタル的にしんどい時期も支えてくれた夫に感謝しかない。

出産の影響


妊娠してから頭がぼーっとすることが増えたし産後もホルモンのせいなのか分からないが、うっかりミスが増えた。でも、いつも穏やかでいられるしマミーブレインなのかもしれないが、これも幸せに過ごすために体に備わっている機能かもしれない。勉強するための機能が衰えた気がしないでもないが、本当に出産してよかったなと隣ですやすや寝ている赤ちゃんを見て心の底から思う。

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