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それでも私は自己犠牲の上で成り立つ関係性より、私のまま偽らずに生きていく

心をオープンにして話すことは必ずしも心を通わせるとは限らない。これまで自己犠牲の上で成り立つ関係性なら尚更だ。

こんなことを感じていた。

探り合いのコミュニケーションをしたくないと思った。

心を開きたいということは私にとってつまり、自分を偽りたくないということを意味していた。

別に文句を言ったり喜びを爆発させるとかそういうことだけではなくて「在り方」として心が閉じるような、そんな心の在り方はもうしたくない、もうできないのだと思った。

そして最近少しずつそれを実践している。
最初は心を開くことで心の距離が近くなったり心を通わせることができるのだと信じていた。けれど、実践していくとどこか心の距離が開いていくようなそんな感覚を覚えた。

なぜだろうと感じていたが、それもそのはずだった。
だってこれまで私は自分よりも相手を優先していたから。
思ったこと感じたことがあるはずなのに、相手が欲しがっていそうな言葉を選んだ。そんな相手からしたらこれまでの私とは違うふうに私のことが見えていてもおかしくないのだ。相手は戸惑っているのかもしれない。もしかしたら、心の距離が遠くなっているように感じているそれは私の勘違いかもしれない。勘違いじゃないのかもしれない。それは些細なことでどちらでもいいのかもしれない。

けれども、もし仮に本当に心を開いた結果心の距離が遠くなることがあるとして。

その上で私はどうしたいのだろうと考えると、答えは決まっていた。そうだとしても私は違う私を装ったり、自分を犠牲にしたり、偽ったりすることはもうできないと思った。自己犠牲をすることなく、心を通わせたい。装うことなく心の距離を近づけたい。それが私の答えだった。

心を開くこと全てが心の距離を近くすることにならないとしても、もう偽ることはできない。

そう感じた要因の一つとして父親との関係性の変化がある。

私は睡眠障害を患うほど、父親との関係に長らく悩んでいた。
それでも相手はそんなこと微塵も感じていなかった。
なぜなら私がそれを感じさせないように隠し通していたから。

相手を思い、いつも相手を優先させた。

相手には私の本当の気持ちを隠し通せても、最後まで自分自身を欺くことはできなかった。

私のメンタルはどんどん追い込まれ、父親とほとんど顔を合わせなくなってからもその代償として10年ほど睡眠障害の症状が続いた。

もうだめだと悟り「もうやめてください。私にはもう何もできません。」とやっと相手に伝えることができてからは、睡眠障害の症状が嘘のようにぴたりとなくなった。

日常生活でこうなったらどうしよう、ああなったらどうしようと相手との関係性に不安になることもなくなった。

それをきっかけに、私の価値観にも少しずつ変化が訪れていた。

自己犠牲の上で成り立つ心の距離の近い関係性よりも、自己犠牲のないそのままの私で心の距離が近くなるそんな関係性をこれからはもっと大事にしたいし、もっとつくっていきたい、そう感じるようになった。

そうして今、またある関係性に変化が訪れようとしている。

そしてそれをほんのすこし怖がっている自分もいる。
傷ついている自分もいる。全てあって良いものとしたい。

それでも私は自己犠牲の上で成り立つ関係性より、私のまま偽らずに生きていきたい。


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