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祝・Jリーグ30周年❶〜Jリーグ開幕までの道・1993年5月15日(国立競技場)〜

どうもどうも、吉良です。

1964年の東京オリンピックで人生初のサッカー(ブラジル4vs0韓国)を観戦してサッカーに興味を持ち始めた僕にとって、1968年のメキシコシティオリンピックは「夢の形は変えつつも好きなことを仕事に」の入り口になりました。

関連note、「僕とオリンピック」や「夢のかたち~夢をかなえるための発想法~」も合わせてご覧ください。

1964年、サッカーとの出会いとなる東京オリンピック・サッカー日本代表のFWにはJリーグ初代チェアマンの川淵三郎氏が選出されています。

1968年のメキシコシティオリンピックでは、日本代表が3位決定戦で地元メキシコに勝ち、なんと銅メダルを獲得しました。当時ヤンマーディーゼルに所属していた釜本邦茂選手は見事に得点王に輝き、当時の世界No.1のサッカープレイヤーと称されていました。

左ウイングの三菱重工の杉山隆一選手との黄金のコンビは素晴らしく、「杉山が上げて釜本が胸トラップ。そのボールを振り向きざまに左足で蹴り込む銅メダルを決めたシュート」。僕は釜本選手になりきってこのシュートを何度も何度も練習していました。

大阪芸術大学キャラクター造形学科・大原歓方さんが描いたシュートシーン

これがまさに、今でも大切にしている「憧れ醸成」戦略の自分事の第一歩でした。この釜本選手はJリーグチーム、初代ガンバ大阪の監督です。

僕の世代の憧れの加藤久選手は宮城県出身で、川淵チェアマンや釜本選手も所属していた早稲田大学のサッカー部(ア式蹴球部)所属、在学中から日本代表に選ばれていました。ちなみに前述の杉山隆一選手も明治大学在学中から日本代表に選ばれていました。

加藤久さん(以下、久さん)との出会いは1992年、電通の先輩の紹介でした。東京オリンピックで初めてサッカーと出会い、メキシコシティオリンピックの銅メダル獲得でサッカーにのめり込んだ僕の夢は、FIFAワールドカップに関わることになってゆきました。

この夢の実現の可能性を求めて電通に入社し、1990年FIFAワールドカップイタリア大会に向け、芥川賞受賞作家・村上龍氏に執筆を依頼して企画を立案。クライアントの快諾を得て大きな夢の実現に一歩ふみだしました。

この内容は「僕とワールドカップ・1990イタリア大会❶❷❸」に記しています。Jリーグにも関わる内容なので是非お読みください。

90年のイタリア大会が終わったらすぐに94年のアメリカ大会への準備に入りました。アメリカ大会へのロードマップをイメージすると、93年の5月にJリーグ開幕、その年の秋にアメリカ大会・アジア最終予選、94年6月にアメリカ大会開幕。

そこから逆算すると、92年中にキャスティングを決めてクライアントプレゼンが必要ということになり、現役Jリーガーで憧れの選手の加藤久さんに白羽の矢をたてました。それが冒頭の1992年の出会いに繋がります。

その出会いによって僕とサッカー界の輪が拡がっていきました。

つまり久さんと出会っていなければ今の姿はないということです。加藤久さんには、現役Jリーガーとしてワールドカップアメリカ大会のスペシャルライターをスポーツライターの故・山際淳司さんと共にやっていただくことを快諾していただきました。

それだけではなく新たな加藤久さんとのコミュニケーションが生まれました。それが、まさに1993年のJリーグ開幕、日本サッカー協会の強化委員との繋がりの第一歩になりました。

1993年5月15日、いよいよ日本サッカー界の歴史を大きく変える地域連動型のJリーグが開幕しました。

各チーム名にはフランチャイズの地域名がつきました。もともと実業団チームを支えていた企業はメインスポンサーとなり、選手たちは憧れのプロサッカー選手・Jリーガーになり、まさに好きなことを仕事にするというプロサッカースタイルを野球に続いて実現しました。

1993年にJリーグが始まったときの参加チームは、以下の10チームでした。

チーム名(所在地・母体企業)

鹿島アントラーズ(茨城県鹿嶋市・住友金属)
ジェフユナイテッド市原(千葉県市原市・古河電工)
浦和レッドダイヤモンズ(埼玉県浦和市・三菱重工)
ヴェルディ川崎(神奈川県川崎市・読売サッカークラブ)
横浜マリノス(神奈川県横浜市・日産自動車)
横浜フリューゲルス(神奈川県横浜市・ANA 佐藤工業)
清水エスパルス(静岡県清水市・エスラップコミュニケーション)
名古屋グランパスエイト(愛知県名古屋市・トヨタ自動車)
ガンバ大阪(大阪府大阪市・松下電器)
サンフレッチェ広島(広島県広島市・マツダ)

開幕戦は1993年5月15日に国立競技場でおこなわれた、ヴェルディ川崎vs横浜マリノスでした。ヴェルディ川崎のスターティングメンバーだった加藤久選手にチケットをとっていただき、僕も観戦していました。

このときのヴェルディ川崎の監督は現在解説者の松木安太郎氏、主力選手にはいまだに現役を続けているカズさんこと三浦知良選手がおり、横浜マリノスの監督は後に日本代表監督を務めた加茂周氏でした。

現在の強化委員長の反町康治氏は横浜フリューゲルスで出場しています。今日でも懇意にしているクルージャ盛岡の監督・秋田豊氏は鹿島アントラーズのスタメンで、ジーコとともにプレイしています。

本人はキャスター、お嬢さんはアナウンサーとなった永島昭浩氏はガンバ大阪の中心選手でした。「継続は力なり」と「好きなことを仕事にする」人がたくさん生まれているということを見ても、Jリーグの仕組みは育成モデルとしても素晴らしいと言えます。
そこで次回のnoteでは、この仕組みを説明します。

Jリーグ開幕から、日本サッカー界が描いたロードマップのなかで唯一と言われる誤算が1993年10月28日に起こった「ドーハの悲劇」です。

国際化、経済と同じく有名外国人選手のJリーグ参加というインバウンドは上々でした。しかし、順風満帆に見えた中での「ドーハの悲劇」。

これによって国際舞台の登場が4年遅れ、初出場で一次予選全敗のフランス大会を経て、実績をしっかり世界に見せることができた2002日韓大会まで、いわゆる日本選手の海外進出というアウトバウンドが大きく遅れました。

ドーハの悲劇、つまりアメリカ大会のアジア予選敗退はこの遅れの最大の要因でした。

次回は「ドーハの悲劇」から2023年5月14日の30周年までの、自分が関わったサッカーストーリーをお話します。 

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