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私が躁うつとわかるまで④ 〜最後のブレイクダウン編〜

前回までは↓


「これは心療内科に行かないとまずいかもしれない」と2回思ったうちの2回目の話です。これが私の最後のブレイクダウンです(最後であって欲しい)。

転職先ではまずは会社の大黒柱であるカフェの営業を任されました。

自ら店頭に立ち接客しながらまずは業態を知り、同時に営業オペレーションの見直しやスタッフ管理、育成を行ないました。

一つ一つマニュアルを作りながら基盤を作っていくような途方も無い作業に思えましたが、毎日できることをやるだけの日々でした。

入社してからの1ヶ月間で、業績をわかりやすくまとめて現状把握しやすくしたり、新しいシステムを導入したり、新しいマニュアルを店舗で試したり、

少しずつでありながらも力技で乗り切っていたような部分を整理整頓していきました。


そんな中、コロナウイルスがまたもや私をうつ状態にしていきました。

9月末ごろ、職場の同僚が新型コロナウイルスに感染し、私は濃厚接触者となってしまいました。

会社も何日間か休業をすることになり、私は自宅待機中にその対応に追われていました。

私は大きなストレスを感じ始め、過食行動をとるようになりました。

次第に心は希望を失い、うつ状態に陥ってしまいました。


自宅待機が解除された後もうつ症状は治らず、ある日出勤前に私は崩れ落ちてしまいました。

どうしても仕事へ行けないと、私は大泣きしたのです。

その日の朝、いつも通り私は出勤前にメイクをするために鏡の前に立ちました。

そこには連日の過食でむくんだとてつもなく醜い自分の姿があり、こんな顔で外なんて出られない、どうしよう、と戸惑いました。

戸惑いもつかの間、こんな醜い姿になるまで食べ続けた自分が情けなくなり、涙が出てきました。

涙が出ると余計にメイクなんてできない、メイクしてない顔で会社に行けないのに、どうしよう。と私はパニックに陥りました。


これはもう重症だ、自分ではどうしようもできない、と思いました。

私は泣きながらも母に電話することにしたのです。

「最近また食べてる、会社に行けない、どうしよう。」

母はすぐこちらに向かうと言って電話を切りました。

私は鏡に向き直し、眉毛だけ書き、出勤しました。


母はその日、私の仕事が終わる頃に到着するように、電車と新幹線を乗り継いでこちらへきてくれました。

その日から母は、食事の用意、洗濯、掃除、すべてやってくれました。

私は朝起きて、母に見送られて仕事へ行き、帰宅後に用意された夕飯を食べて、用意された風呂に入り、寝る生活になりました。

週に2日ある休みには、朝ごはんを食べた後、ひたすらアマゾンプライムを見て、眠くなったら昼寝をし、夕飯を食べて、入れればお風呂に入り、寝ました。

母は私の生活にひたすら寄り添ってくれました。

私は母にやってもらわないと自分でできない不甲斐なさを感じつつも、今は自立できないことを認めざるを得ませんでした。

母の心配を身にしみて感じていても、唯一自分にできることは心療内科を受診することだけでした。

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