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自己肯定感と聞いて素に感じること


自己を肯定する、ってここ数年くらい
あちこちでよく見かける。それはいいんだけど
肯定するのは良い事で、肯定できないのは悪いこと、みたいな風潮がどうも苦手。
実際どうなんだろう。


わたしはそう感じているひとり。


まず、前提に自己肯定感なんてどっちだっていいんじゃない?と思うから。


◯◯感、なんて目に見えている表面ではない
個人のもっと奥深いところにある脈みたいなものだし、他人に認識されることじゃなく自分にしかわからないことだから。


それに、自己肯定感という言葉を
どんな状態の時に使うのかを考えてみると
まず、自己を否定している状態からでないと
肯定という状態は生まれないことにも気づく。


劣等感
優越感
なんかと同じで、
比較した結果にしか生まれない感覚だし
自分の内側から自然と湧いてきた感覚ではない、というのはわかる。

比較が悪いわけじゃないけど
比べたときに何か落ち込む感覚や
モヤモヤとする感覚があることは
誰でもあると思う。
じゃぁなんで、比較することが悪いって思ってしまうのかって
自分でその感覚(感じたくない感覚)を消そうとするから苦しくなるのだ。

モヤってしたらそれは一体どんな感情なのか、
本当は何と思っているのか?を見る癖がつくと無理に消そうともしなくなるから楽になるし
誰かや何かと比べてもいいんだ、と思える。


だって比較対象があるから
自分という存在が認識できる訳だし
違いを違いとすることでアイデンティティに
なることが大切で、
比較は悪い事じゃない。


違っていて当たり前なんだから。

何かを見てモヤモヤするとしたら
そこに自分の中に自分でも分かっていない
なにか発掘されていない才能があるはずなのだ。

モヤモヤするときの対処方
(わたしの場合)
→悔しい→自分にもできるはずなのにできてない→自分の才能やチカラが在ることを信じてない→じゃぁもっとちゃんと好きなことや楽しい、って感じることを観察してみよう→なにかできることか始めよう→まずはリラックスしようかな。


そもそも人間なんだから
感情の揺れ幅の中にいたり
感情の浮き沈みがあるのが普通だと思うし
それが生きている人間にとって悪いことじゃない。
なんなら、そのために人間に生まれた訳だし。

感情の揺れや浮き沈みがなかったら
人間でいる必要だってないとすら思う。

多くの人の悩みでもあるような
誰にでもある気分の浮き沈みに悩んでいるとしたら
目を向けるのは自己肯定感ではなく、自己受容の方。

浮き沈みがある自分に対しても
沈んでもいいよ、
気分が上がらないこともあるよねぇ、
今はそんな気分の時なんだ、
気分がよくないよね、嫌だねぇ、

そうやって
無理に沈んだ気分をなんとか変えようとしようとしないで
そのまんまただ在ることを認めるのが自己受容。
ノーコントロール。


落ち込んでいたら、もっと気分が悪くなるよ、という説もあるだろうけど、わたしは潜在意識や
宇宙の法則も学んで一周して
やっぱり自分の感覚を研ぎ澄ませ、感覚に従うことが人間としてこの世界を生きる醍醐味だと知った。
どんな感情もただ在る、を認めて認識したら
なんか、どうでもよくなるというか、
視点が少しだけ変わってすっと軽くなるのだ。

なかったことにしようとして
無理矢理力技であげようとすると
また、極端に下がるという現象が起きる。
例えるならアルコールを飲んでハイになって
翌日の朝、酔いが醒めたらふと気分が落ちたように感じるのに似ている。


アルコールを使って気分を上げるのは
一瞬でできる簡易的な方法ではあるけれど、
誤魔化して本音を無視しているから、
上がった分だけ下がったように感じるのだ。
(下がっていなくても)



子供が走っていて、なにかにつまづいて転んで、
膝を擦りむいたとして
目の前で泣いているところを見たら

「大丈夫?」のあとに
「痛くないよ、大丈夫。痛いの痛いの飛んでいけ〜」って
気を逸らせて
泣き止ませようとしてやしないか?


もちろん、悪気なんかない。私たちは、実際に大抵そうやって育てられた大人だから
それは仕方がない。
だけど、転んで泣いた子供(自分)は泣き止みたいんじゃなく
安心したいだけなのよね。
安心したら、勝手に泣き止むでしょう?


同じように
自己受容していくうちに、気づいたら
安心に包まれていくから
自分を否定したり誰かと比べて落ち込んだりすることが少なくなっていく。

泣きたい時には泣いて
落ち込みたい時は落ち込む
怒りたい時に怒り
悲しい時には悲しむ、
それが自然な感情。

自分は自分でいていいんだ、という安心は
誰かから与えられるものではない。
自分が自分をわかってあげる、自己受容をうまく
できるうちに
そのうちに自分を肯定する感覚が自然発生するというしくみ。


自己肯定感というものは上げるものじゃなく
結果、上がっていたように感じる感覚のことだから、無理にあげようとしても上手くいかない。

無理にあげる、っていうのは
◯自分のいいところ
◯できるところ
◯才能や人から評価されたこと
とか、条件を見ることって
よく、やりがちなんだけど
そっちではなく

条件、地位や肩書き、才能や評価は関係ない
何もしないまま、何なら役に立たないそのまんまの自分の方を見ること。

自己肯定感が大切だと思わないのは
自己肯定感があるとか、ある一定の高い状態だから
人生全てが上手くいくという訳でもないから。

それよりも
その時々で揺れ動く自分の感情の認知をその時々で場面毎でできていれば生きやすくはなる。

それに、この自己肯定感という言葉
なんだかふわっとしていて、捉えようがないような。

なんでかなぁ、
日本人はそういう民族だから、とか
自分に厳しいんだよ。と当たり障りのない単純な結論になりそうだから
これ以上あまり話を膨らませないようにしよう。


本来なら、わたしたち人間(あえて大局的に使う)は
自分自身のありのままを肯定も否定もせずに
ただ、受け入れることができているのが
当たり前のはず。


なんでそんなに確信を持つのか?
生まれたばかりの赤ちゃんは
お腹空いたら言葉なんて使わなくても全身全霊で
泣くし、何もできないようで実は誰かに助けてもらうことができている。
生きるチカラって人間全員が兼ね備えてこの世に来ているんだなぁって、子供に改めて教えてもらった。


なのにどうもねぇ、どうやらこの世界は生きているうちに、少しずつ、
自分というありのままでも輝かしい存在に確信が持てなくなることがあるらしいんです。


わたしもそうだったのだけど。
過去にはよく誰かからの評価や目や噂を気にしたり
誰かの言葉や態度から影響を受けて右往左往したり
傷ついたり。


過去のわたしは自分に厳しかった。
すぐに、ダメ出しをする。
感情に評価をつける。

こんなに四六時中監視されたら面白くないし
家に帰りたくなくなる。
だからいつもお留守で、
わたしの中には自分は不在だった。


自己肯定感、などという難しい単語を使わなくても
わたしたち人間は
自分(見つめる自分)と自分(見つめられる自分)が
仲良しであれば幸せなはずなのだ。

よくわたしはこの状態を
自分のもうひとりのお母さんと例える。
この世に生み出してくれた母親とは別の存在。
そのお母さんはみんなの頭の中にひとりひとり住んでいる。


わたしのお母さんは
大抵は何を感じても受容してくれる、
話を聞いてくれる。
無理に励まそうとしたりもしない
ただ、そばにいてくれて応援してくれる。

あなたの頭の中のお母さんは
どんなお母さんだろうか。

泣きたい時には心ゆくまで泣かせてあげられる
お母さんだといいね。

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