好きな人に好きだと伝える

好きな人はいますか?
好きな人に、好きだと伝えてますか?
まっすぐ「好きだ」って言えますか?

好きな人たちに、好きだと伝えることにまったくためらいのない人もいる。
そういう人は、この話はチンプンカンプンでただの言い訳に思うかもしれない。
好きな人に、好きだと言えなかったことのある人にはわかるかもしれない。

わたしは、好きだということを伝えてはいけないと無意識にずっとブレーキをかけ続けていた。

わたしに好きだと言われても困るだろう。
わたしが好きなことがバレたら、嫌がられる。
迷惑にならないように、これ以上好きにならないようにしなくては。

そんな風にして、ブレーキをかけ続けていた。
自分の「好き」をフルオープン全開にしてこなかった。
特に人に対して。

モノや二次元の人たちには、いくらでも好きをかけてもよかった。
相手の気持ちを考えなくてよくて、ただ好きなだけでよいから。

だけど、人はそうはいかない。
わたしが好きだということがわかると、困ったり鬱陶しがられたりする。
わたしは好きなのに、相手は嫌い。
相手が受け取りたくない時に、わたしの全存在が否定されたような気持ちになった。

だから、あらかじめ、受け取ってもらえないと想定して、
受け取ってもらえなくても大丈夫なくらいにしか
好きにならないようにしていた。
そして、このくらいならいいかな?、この程度なら大丈夫かな?と、
すごくすごく小出しにしていた。
そして、ちょっとでも受け取ってもらえないかもしれないと思うと、
すぐに引っ込めた。

やっぱりね。
このくらいにしておいてよかった。
そんな風に自分を慰めながら、
相手の顔色を伺って。
相手に合わせて。
相手がいいと言ったら。
相手が受け取れる分だけ。

だけど、それをやっていたら、
本当に好きなのかどうかわからなくなる。
自分の好きがあったんだっけ?みたいな感じ。
わたしが好きでやっている。
わたしが好きだから。
そういうのをどんどん見失ってしまって、
一体、何をやっているのかわからなくなってしまった。

自分を引っ込めて引っ込めて引っ込めすぎて、
亀が甲羅から首を出さないみたいに。
ずっと甲羅でいるなら、
中身いる???

わたしとおんなじくらい、あの人もわたしのことを好きだったらいいのに。
そんな風に思ったことは数知れず。
いつも愛されたがっていた。
誰かにわたしを愛してもらうこと、
わたしと同じだけ、愛して欲しいと
欲しがっていた。

同じだけってどうやって?
何をみて、何を知って、何を感じて、何を測って、
どうやって同じだってわかるのだろう?

何かをしてもらったら?
お金をたくさん使ってもらったら?
わたしを機嫌よくしてくれたら?
衣食住を満たしてくれたら?
言うことを聞いてくれたら?

そしたら、同じだけ愛されてると思うのだろうか?わたしは。

違うなあ。

自分で自分に向かって、
「■■のことを愛してるよ」
というのは言えるのに、
「■■が好き」
って言おうとすると、どうしても言葉に詰まって言えないという
話をしてくれた人がいた。
言おうとすると、涙が溢れてきて言えなくなると。
わたしも試しにやってみたら、
鏡の中で、能面みたいな顔で言っていた。
なんか違う自分になって
感情を殺して、言ってるみたいだった。

わたしがわたしを好きじゃなかった。
だから、誰かに好きだと言ってもらいたがったし、
相手から否定されると、
もうそれで生きている価値がないと思って、
地獄の底に落ちるように落ち込んだ。
またそこから、這い上がるのも大変だから、
自分が好きだと思うよりも、
誰かに気に入られるように振る舞って、
好きだと言ってくれる人に着いて行ったりした。
好きだと言ってくれる人の言うことを聞いて、
なんでも言いなりになって、
それがまた相手の怒りを買ったりした。

まあ、そりゃあ、しんどいわね。。。

自分のことは、自分で引き受けるしかない。
相手のことは、相手にお任せするしかない。
わたしが好きで一緒にいたくても、
相手はそれほど一緒にいたくはないというなら、
それは仕方がないんだ。
相手をどうにかしようとしても、どうにもならない。
わたしは、わたしのことをどうにかするのが先だった。

自分で自分が嫌いなら、
人に好きになってもらうことで、その嫌いをなんとかするんじゃなくて、
自分でそこを観てみるしかない。
それがようやく腑に落ちた。

座禅したり、
お祈りしたり、
ワークショップに行ったり、
いろいろやった。
そのためのお金も大量につぎ込んだ。

誰かになんとかしてもらおうとしている自分に向き合うのは
けっこうしんどくて、
なんどもするりと逃げた。
だって。でも。だけど。それは違くて。
依存しているわたしから出る否定の接続詞たち。
いやー、なんの脈絡もなく、いきなり
「でも〜」
から話し始めていたりするからびっくりだ。

それでもやっぱり、
自分から逃げることはできなくて、
この自分を受け入れるしかないんだと
向き合ってきた。
自分の身体の声を聴き、
耳の痛い助言をくれる人たちの言葉をまっすぐ受け取り、
気づいて、気づいて、気づいて、気づいてないことにも気づいて。
ただ、自分を大切にする。

自分を大切に、とか、
自分を大事にする、というのは
わがままになる、とか、
傍若無人に振る舞う、とか、
他人を否定する、とかではないのだと識った。

自分に優しくしたら、ダメになると思っていた。
自分に甘くなんてしたら、自堕落でどうしようもない社会不適合者になってしまうと恐れていた。

でも、自分に優しくしたことなんてなかった。
自分を甘やかしたことなんてなかった。
いつもいつも、どんなときも、ずっとずっとダメ出ししていたのだ。
わたしはわたしをいつも否定していた。
それに気づいて、やめた。
最初は気づいても、ダメ出ししていたということを否定するという
ループにはまったりもした。
ジャッジ中毒だったから。

気づいたら、気づくだけ。気づけばOK。
ただ気づき続ける。
ひたすら、ひたすら。
感情や思考に囚われることなく、
いろいろ浮かんできても、考えがぐるぐるしても、
それはそれで隣に置いておいて。
気づく。気づく。
ジャッジしない。
気づいたことをジャッジしない。

気づいたら、自分を否定することをやめていた。

自分の好きなところに気づいたりするようになった。
まあ、ここはいいかも?と思えたりするようになった。
こんなところは可愛いかも?とか。
人と比べたら、ダメに思えるところも、まあいいか、と思えるようになったり。
人と比べなくてよくなったり。

好きな人に、好きだと伝えることが、
前よりずっと怖くなくなった。
「好き」という言葉でなくても、
好きを伝えることができることも識った。

以前は、嫌いな人の話をずーっとしていた。
どこが嫌いか?ということについて。
すごく気になったし、
自分がいかに正しいかを証明したかったのだと思う。
わたしは間違っていない。
だから、嫌いでいい。
好きとか嫌いに、理由はなくてもいいのに、
一生懸命、理由をつけて、嫌な気持ちになることを
わざわざしていた。
距離の取り方を間違っていただけで、
一緒にいて不快なら、不快じゃないくらいに距離を保てばいいだけだった。
一人になるのが怖いから、嫌いでも一緒にいようとしていたのだ。
誰か、誰でもいいから、ひとりにしないで。
でも、今は、そのほうがよっぽど恐い。

わたしが使える時間は限られている。
同じ使うなら、好きな人と、好きな時間を過ごす方がいい。
好きな人たちに、好きだと伝え合いながら、
一緒に楽しく過ごす方が、
幸せだと思う。
そんな当たり前みたいな、だけど、全然当たり前じゃなかったことを
これからたくさんしていこうと思っている。


1096日連続毎日書くことに挑戦中です。サポートしてくださるとものすごくものすごく励みになります◎ あなたにも佳いことがありますように!