吐く息が白くなる季節。背伸びしても、大人になりきれなかった。

僕は1人が好きと言った。

1人の時間がないと死んじゃう。どうせ授業でしか顔を合わさず、単位を取得するためのグループワークで気を遣い、挙げ句の果てにノートを見せろとか言ってくる奴がいるこの空間にもう辟易していた。例のウイルスの流行で授業がオンライン化したときは、学校に行かないだけでこんなに健康的で文化的な生活ができるのかと歓喜した。僕はコロナが収束した大学4年の夏からも、教授に「東京の家を引き払って実家に戻ることにした」と適当な嘘をつき、オンラインでの出席を許してもらえた。

彼女は僕が苦手なことをできる子だった。グループワークでは率先して発表係を引き受け、グループの意見をまとめ、発言ができていない子にはヒントを出して発言を促した。誰の意見も否定せず、時々冗談を交えて少女のようにワハハハ、と笑う。いつも人の輪の中心にいて、彼女のことを嫌いな人はいないんだろうな、とそういう印象だった。そんな抜群のコミュニケーション能力に、文句のない愛嬌で、僕からしたら人間離れしているようで、ちょっと近寄りがたかった、というのが本音だった。


10月の終わりのある日、僕はテスト前だったので久しぶりに大学に行った。元々着るものには無頓着で「春服」とか「秋服」とかいう半端で難しいものは持ち合わせていなかったけど、最近は秋を飛ばして冬が来るので、冬用のブルゾンを着ていっても違和感はなかった。実に2年ぶりに来たので、1年生ようにキョロキョロしてしまいそうになるけれど、大学のシンボルマークである大きなイチョウの木のお陰で迷わずに済んだ。3年前、あのイチョウの木の下で母親と写真を撮った。その時の僕の無愛想な顔が瞼の裏に浮かび、母親の「おめでとう」という言葉が脳内で再生された。なんだか、申し訳ない気持ちになった。


教室には教授はいなくて、代わりに彼女が何やらパソコンで作業をしていた。
「あの…」
彼女は肩をビクッと震わせ、こちらを見た。今までほとんど会ったことがなかったけど、実際に見ると思っていたより華奢で、小さかった。
「……びっくりした。急に話しかけないでよ〜。秋山くん?」
「うん、先生って、いない?」

彼女の視線が僕の頭の先から爪の先まで通っていった。「意外とデカいな」とか思われているんだろうな。

「先生は今日は学会でいないよ。どうかした?」
「そっか、分かった。ありがとう。」
「待って」
わざわざ来たのに、という落胆を隠しきれていなかったのだろうか。彼女が僕を止めた。



「テスト対策?教えてやるよ。」  
彼女はニヤッと笑って、僕にはその野生的な表情がとても魅力的に見えた。




語学のクラスでは明らかに浮いているけど、そんなことは気にしていなさそうで、画面の向こうから先生に質問をしている。変なヤツだ。

私は正直あまり理解ができなかった。昔から、誰かと居ることでしか「自分」を見ることができなかった。この人と居ると温かい気持ちになるな、とか、この人を笑わせていたいな、とか、この人私のこと好きだな、とか思う瞬間があると、「あ、自分って確かにここに存在しているんだな」と初めて自覚することができる。1人で食べるものも着るものも行く場所も心底どうでも良くて、家はただの寝る箱だと思っている。
人と喧嘩をしたことがなかったし、誰かから嫌悪の目で見られることも、「悪口を言っていたよ」なんて聞くこともなかった。「誰にでも優しくできてすごい」なんて言われたこともあるけど、誰にも優しいというより究極的には誰にもキョーミがないだけだと思う。

私は極端な方だと思う。でも彼も極端だ。

「あの…」
振り返るとよく見る顔があった。よく見る顔だったけど、すぐには思い出せなかった。

「……びっくりした。急に話しかけないでよ〜。秋山くん?」
「うん、先生って、いない?」

彼は身長180cmはあっただろうか。私は彼を頭の先から爪の先までジロッと眺めて、意外とデカいな、という感想を持った。
「先生は今日は学会でいないよ。どうかした?」
私は何故かこの秋山という男にキョーミを持った。「勉強なら教えてやるよ」と大口を叩いたものの、別にフランス語は得意な方ではない。なんとなく、彼と話してみたかったのだ。

彼は1人が好きと言った。
ボーッとして、授業を受けて、寝て、起きて、ご飯を食べて、たまに本屋に行くらしい。
「楽しいよ。無駄な飲み会とか無いし。でも、僕には山下さんみたいな社交性がないから、羨ましいなって思うよ。」
「私からしたらあなたの方が羨ましいよ、なんかさ、こう、自分の世界を持ってる、って感じで。」
「そんな格好いいものじゃないけどね。
でもさ、山下さんって本当は誰にもキョーミ無さそうだよね。」
彼はそう言って、目に皺を寄せて笑った。こういう笑い方するんだ、と思った。それがどういう感情なのかは自分でも分からなかった。とにかく、初めてそういうことを人に言われたので、驚いた。
「え、本当に?そう見える?隠してたつもりなんだけど。」
「なんとなく、ね。キョーミないから執着しない、だから人間関係が楽そう。羨ましいよ。」



そこから僕たちは毎週金曜日の4限の後、大学の近くのドトールで会うようになった。お互いに得意じゃないフランス語の課題をああでもないこうでもないとか言いながら一緒に片付け、家族の話、好きな本の話、好きな音楽の話、過去の恋愛の話、フランス語の先生がいつも同じ服を着ているという話、とにかく色々な話をした。僕たちはその後居酒屋に行ってベロベロに酔っ払ったり、ノリで江ノ島まで行って海鮮丼を食べることもあった。でも僕は彼女に触れなかったし、彼女も僕に触れなかった。なんとなく、それをしてしまうと、絶妙なバランスで保たれているものが音を立てて崩れてしまうような気がしたからだ。


その日は金曜日ではなく水曜日で、場所はドトールではなく学校の進路指導室だった。
彼女は泣いていた。

まあまあな有名大学に通っておきながら就職する気がサラサラなかった僕は、面倒見の良いフランス語の教授に半強制的に進路相談を予約され、30分前に着いてしまったのでウロウロしていた。
そこに彼女がいて、彼女は泣いていた。趣味が悪いかなと思いつつ、気になったので教室の前で盗み聞きをした。最近世間を騒がせている某ウイルスのせいで採用枠が縮まり、彼女の内定が取り消されたようだった。

「そんな…そんなことあるんですか…?ずっと、ずっと頑張ってきたのに…」

彼女の声が聞こえた。僕は苦しくなって逃げるようにその場を去った。



その週の金曜日、彼女はドトールに来なかった。来ないだろうなと思いながらも、待っていたかったので僕は待った。その次の週も、その次の次の週も彼女は現れず、進路指導室で彼女の姿を見てから1ヶ月半が経った。
金曜の4限終わり、僕にはもうそれが歯を磨くとか大学に行くとかそれくらいの習慣になっていたので、何も考えずにドトールに向かった。彼女からLINEが来たのはその時だった。

「今日飲み行かん?」

思わずその場でガッツポーズをしてしまいそうになった。カッコ悪いかな、と思いつつ、僕はそのラインを5秒で返した。

1ヶ月半ぶりに彼女に会った。だいぶ会っていないような気がしていたけど、1ヶ月半で人はそう変わらない。いつもと変わらない彼女がいた。僕たちは今ドキ「現金のみ」とデカデカと書かれた焼鳥屋に入った。「税金払ってんのかな」と彼女は言った。「払ってないんじゃない。知らないけど。」

「そういえばさ、秋山くん、この間進路指導室で盗み聞きしてたでしょ。」
「え、バレてた?ごめん、用があって行ったんだけど、つい気になっちゃって。めちゃめちゃ盗み聞きしてた。」
彼女はケラケラと笑った。
そして彼女は、その時の話をしてくれた。


「CAさんになりたくてさ、父親が転勤族で小さい頃から色々な場所を飛び回ってて、『地元の友達』みたいなのもいなくてさ。家の中が空っぽになって、ああまた引っ越しかって思うと私がそこで積み上げてきたものも全部空っぽになっちゃう感じがして、だから何にも興味持たずに、いつこの場所を奪われてもいいようにしよう、って、そう思って生きてきたんだよね。だから移動するのは嫌いだったけど、飛行機は大好きで。映画が見られたり、機内食もなんだか非日常でワクワクしたし、綺麗なCAさんがお姫様みたいに扱ってくれるし。ほら、うちお金はあったからさ、ビジネスクラスとか乗せてくれたのよ、それで。」

彼女は吐き出すように話し、ビールをグイッと飲んだ。


「大学入って一人暮らしして、この土地に定着して、勉強も部活も頑張って、就活して、やっと掴めたと思ったの。内定ではなくて、内々定って言うのかな、次行けば、握手して内定、みたいな。そんなところで、『業績が悪いからやっぱだめです』って、そんなことある?もうたくさん泣いたけどさ、笑っちゃうよ。」

彼女は伏し目がちに笑った。

「CAさんになるんだって言って、凄いね、とかあなたならできるよ、って言われてきて、そうやって、"自分"っていうものを保っていたから、急に無くなっちゃうと足場が無くなったみたいな感じで。自暴自棄になって、最悪な生活送ってた。」

僕は何か言ったほうがいいんだろうなと思いつつ、気の利いた言葉が浮かばなかったのでハイボールをもう1杯頼んでほぼ一気飲みで飲み干した。その飲み干した息で、頑張ったんだね、と一言だけ返した。

彼女は張り詰めていた糸が切れるように、泣いた。

僕は人間らしくないと思っていた彼女のとんでもなく人間らしい部分を見てしまって、不謹慎だけど、たまらなく愛おしく感じた。彼女を抱き締めたいという衝動に駆られて、でもやっぱりそれは適切ではない気がしたので、しないでおいた。

僕は何も言わず、彼女も何も言わず、そんな時間が静かに流れた。

「ねえ、将来のことなんて、何も分からないね。」
「そうだね。」


手を繋いだのは彼女の方からだった。
駅まで3分の道のりを、7分かけて歩いた。

誰もいない寂れた駅のホームで、僕は彼女に短いキスをして、最終電車のチャイムが鳴った。
その瞬間、僕と彼女を絶妙なバランスで保っていた何かが、音を立てて崩れたような気がした。

「またね」と手を振る彼女を引き止める勇気は残念ながら僕には無く、1人駅を後にした。


秋晴れの予報も虚しく、うざったい小雨が降る街を、傘を差さずにゆっくりと、歩いた。




おしまい。

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