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#詩

東北三詩人試論

東北三詩人試論

0.
宮沢賢治、高村光太郎、石川啄木の三文士を東北三詩人と呼ぶことにする。三人ともに東北に縁があるからだ。以下はこれら三詩人の詩歌作品に対する断片的試論だ。矛盾もあろう、曖昧さもあろう、飛躍もあろう、行きつ戻りつもあろうが、それらをスパイスとして楽しんでいただければ幸いだ。

1.ヴ・ナロード
広義では、賢治も光太郎も啄木もヴ・ナロードの徒だった。狭義では、ヴ・ナロードとは、19世紀後半のロシアの

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女に

かわいい娘、愚行に屈し
知るも手遅れ、裏切られたと
どんなまじない、憂いを解くか、
どんな技なら、罪払うのか?

罪を浄める唯一の手は
世間の目から恥隠すのは
奴を悔やませ、良心を衝く
唯一の手は、死ぬことなのです。

オリバー・ゴールドスミスという詩人の「女に (Stanzas on Woman)」という詩。若い娘さんがろくでもない男に騙され、不倫でもしてしまったのだろうか、罪を得て世間から非難

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罵倒詩

罵倒詩

どういった時に人は罵倒するだろうか。感情が昂ぶった時だ。どういった時に昂ぶるのか。愛や憎しみを強く感じる時だ。では、人はいつ愛や憎しみがとりわけ昂ぶるのか。いろいろあるだろうが、ここではこういうふうに言おう。愛する者や憎んでいる者が死んだ時だ、と。興味深いのは、愛と憎しみは相反する情熱であるのに、どちらも同じ行為へと結実することだ。読者よ、愛する者を亡くした経験があるだろうか。読者がもし男性ならば

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『月下の一群』つれづれ

『月下の一群』つれづれ

若い頃、堀口大学の『月下の一群』で読んだラディゲの四行詩には影響を受けた。露骨でない、洒落っ気のある、どこか陰影を感じるその言い回しには時に心を揺すぶられた。「屏風」はこんな詩である。

この詩は、もう何と言っていいか、本当に心に刺さった。爾来、何とかラディゲの作風をものにしようと何度ラディゲ風の詩を書いたことか。因みに堀口大学の『月下の一群』は若き私のバイブルであって、「大学はどちら?」と聞かれ

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文芸批評断章18

文芸批評断章18

18.
啄木の『食うべき詩』を読むと、こんなことが書いてある(以下、引用は青空文庫『弓町より』からである)。

若い頃の啄木は「朝から晩まで何とも知れぬ物にあこがれてゐる心持」を抱いており、それは「唯詩を作るといふ事によつて幾分発表の路を得てゐた」という。この憧れは常により高きを求めるロマン主義精神の発露であり、それは何らかの意味で理想主義でもあるが、それを現実のより善き状態への改善に結実せずに詩

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文芸批評断章7-11

文芸批評断章7-11

7.
島崎藤村「若菜集」の「秋風の歌」が興味深い。

清(すず)しいかなや西風の
まづ秋の葉を吹けるとき
さびしいかなや秋風の
かのもみぢ葉にきたるとき

や、

見ればかしこし西風の
山の木の葉をはらふとき
悲しいかなや秋風の
秋の百葉(ももは)を落とすとき

などの箇所を読めば、情緒の統一がない。秋風に気持ちよさを抱くと思えば寂しさを感じ、秋風に畏怖の念を抱くかと思いきや悲しみを感じる。しかも

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星 千家元麿

星 千家元麿

千家元麿の詩を読んでいきます。

ふと星空を見上げて心が震え、書き殴ったような作品。千家にはこういった即興の才能があった。そこには子供っぽい発見の心が現れれおり、読み手はその純粋な心情に共鳴してしまう。

ここには人間社会の縮図がある。千家は星空を見ながら、そこに人間を見出したのである。人間社会には、陽気な人々の集う空間もあれば、ただ一人物静かに過ごす空間もある。いまの言葉でいえば、陽キャと陰キャ

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わすれもの      百田宗治

わすれもの      百田宗治

塀越しに掌(てのひら)ほどの日のひかりが落ちる、
太陽だつて気がつかないにちがひない
この遺物(わすれもの)を私は珍重してゐる

洒落た短詩である。ふと見ると塀のところに日の光が差している。この日の光は太陽から落ちたものである。しかしあんまり小さい日の光だもんで、きっと太陽だって気がついていないに違いない。

空想を逞しゅうすれば、時期はきっと冬である。よほど寒い日なのである。しかも夕暮れですぐに

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